第3回子ども作文コンクール

■第3回子ども作文コンクール応募点数
ブロック 東日本 西日本 海外 合計
小学1~3年生の部 87 70 61 218
小学4~6年生の部 207 248 63 518
中学生の部 636 391 42 1069
合計 930 709 166 1805

今年は国内からは1639点、海外は14の国と地域から166点の作品が集まりました。

2021年11月28日に国立オリンピック記念青少年総合センターのカルチャー棟小ホールにて、表彰式を開催しました。第13回環境教育ポスターコンクール表彰式との同時開催です。
対面での表彰式は2年ぶりで、感染対策を講じながらの開催となりました。会場には受賞作品が展示され、審査委員による講評も同時に掲載されました。

表彰式の様子 表彰式の様子

第1部では、子ども作文コンクールの受賞者に表彰状と副賞が授与されました。授与後、受賞者には、受賞した作文を朗読していただきました。

表彰式の様子 表彰式の様子

最後に、審査委員の内田伸子様より、作品全体への講評をいただきました。
式典終了後、受賞者、審査委員の先生方で記念撮影を行いました。

表彰式の様子 表彰式の様子

  • 【理事長賞】
    旭川市立神楽小学校1年  柚木 晃太郎
    鹿児島市立西田小学校6年  小篠 莉央
    南山中学校男子部3年  稲垣 俊介

第3回子ども作文コンクール:受賞作品と審査員講評

ポスターコンクール・公募展の受賞作品はこちらをご覧ください。

【受賞者一覧】※受賞者名をクリックするとその作文に移動します。

理事長賞 小学1~3年生の部 旭川市立神楽小学校 柚木 晃太郎
小学4~6年生の部 鹿児島市立西田小学校 小篠 莉央
中学生の部 南山中学校男子部 稲垣 俊介
学研賞 小学1~3年生の部 宗像市立自由ヶ丘南小学校 藤木 入李
小学4~6年生の部 川崎市立東菅小学校 木村 守
中学生の部 名古屋市立若葉中学校 薛 知明
入賞 小学1~3年生の部 敬愛小学校 安田 彩乃
小学1~3年生の部 大分大学教育学部附属小学校 藥師寺 真杜
小学4~6年生の部 敬愛小学校 安田 悠真
小学4~6年生の部 宇都宮大学共同教育学部附属小学校 岩佐 葵
中学生の部 横浜女学院中学校 栗田 空音
中学生の部 宗像市立自由ヶ丘中学校 伊賀﨑 剛
中学生の部 日本大学第三中学校 木村 創
海外賞 小学1~3年生の部 トリノ補習授業校(イタリア) 細川 ルカ
小学4~6年生の部 オタワ補習校(カナダ) 東村 滉
中学生の部 オタワ補習校(カナダ) 田中 莉於奈

■ 理事長賞

小学1~3年生の部

夕日みたいな先生
旭川市立神楽小学校 一年 柚木 晃太郎

 しゅう字の古川しょうれん先生。いろんな先生の中で一ばんやさしいです。しょうれんというなまえだけど女の先生です。年は百さいといっていたけど、こえがおばあちゃんじゃないからうそかなとおもっています。
 しゅう字きょうしつは金よう日の夕がたです。お友だちが大きなこえでしゃべっているとき、先生はなにもいわずにきいています。ぼくが「もうかきたくない!」とないたときも、「そうなんだね」とずっとはなしをきいてから「かこうね」といいます。「かきなさい!」と、すぐおこらないでやさしいなとおもいます。
 「どうして先生のふでの字は赤いの?」
「どうして先生はなまえが二つあるの?」
「どうしてふでに糸をまくの?」
ぼくのどうしてどうしてこうげきにもわらってこたえてくれます。
 ぼくはふでで「いろ」という字をかきました。その字を、ほっかいどうで一ばんえらい先生が一とうしょうにえらんで「あかるいさくひん」といってくれました。ぼくはカラフルがすきだから、あかるいといわれてうれしいなあとおもいました。
 たくさんのいろがあるけど、古川先生はなにいろだろう? こいピンクいろ。ふわふわあったかいいろです。ぼくはオレンジいろ。はっきりしてめだついろです。ふたつをまぜたら夕やけいろみたいだなあとおもいました。
 ぼくはしゅう字がすきです。いっぱい字をれんしゅうするのでいやなときもあります。だけど古川先生が夕日みたいにニコニコまっていてくれるから走っていきます!

【柚木さんの作品に対する講評】

しょうれん先生が 大好だいすきな晃太郎くん。こえがわかわかしく、やさしい。晃太郎くんのこうげきにもていねいにこたえてくださるお習字しゅうじの先生。先生はいろにたとえると何色なにいろそらをバラ色にこころあかるくしてくれる夕日の色だ。先生への感謝かんしゃ尊敬そんけいねんむ人の心に心地ここちよくつたわってきます。

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小学4~6年生の部

真弥ちゃん先生ありがとう
鹿児島市立西田小学校 六年 小篠 莉央

 「莉央ちゃん、折り紙教えてください」
会うと、毎回そう言ってくるのは、私のお父さんの妹で知的障害がある真弥おばさんだ。私は、小さい頃から「真弥ちゃん」と呼んでいる。最初は、一緒に折って遊ぶが、もう一回もう一回と何十回も言われると、正直に言うと少し面倒くさくなり、適当に教えて、さっと終わらせる時もあった。
 真弥ちゃんは、出産の時に、へその緒が首に巻き付いたため、脳に酸素が届かず知的障害が残ったと聞いた。精神年れいは三才位。だから、何回も同じ事を聞いてくるのだ。
 性格はおだやかで優しく、けんかや争いごとが大の苦手。私が家族の中でわがままや生意気なことを言っていると、すぐに気付き、これ以上言うと私が怒られると思ったのか、
「莉央ちゃん、だめ。しい」
と大きな声を出して私の口をふさいだり、手を痛いくらいぎゅっとにぎってきたりする。
「真弥ちゃんは、莉央ちゃんが大好きなんだね。怒られないように止めようとして」
とおばあちゃんがうれしそうに目を細めて言った。私は素直になれなくて、つい、
「もう、大きな声出さないで。手も痛いよ」
と言って、お礼も言わずに怒ってしまうこともあった。すると、真弥ちゃんは少し悲しい顔をしていた。私は胸がちくっと痛んだ。
 そんな真弥ちゃんには、ルーティーンがある。ご飯をだれよりも早く食べて、一番先に歯みがきに行く。その後、みんなが食べている場所に来て、まず大好きなおじいちゃんに、
「お父さん、歯みがきしたよ。いい」
と歯を見せて、にこっと笑う。二番目は私。
「莉央ちゃん、歯みがきしたよ。いい」
と、歯みがき粉がたくさん付いた口を得意気に見せる。私は笑って、
「真弥ちゃん、歯みがき粉が付いてるよ」
と言いながら、ティッシュでよごれをふいてあげると、くしゃくしゃの最高の笑顔で、
「莉央ちゃん、とっても優しいですね。莉央ちゃん大好き。ありがとうございます」
と深々と頭を下げてくれる。真弥ちゃんにほめられると、私もうれしくなる。
「真弥はおばさんだけど、莉央とは姉妹みたいだな。優しくしてくれてありがとう」
とお父さんが少し泣きそうな声で言った。
 そんなある日、真弥ちゃんが、
「莉央ちゃあん、来てくださあい」
と大きな声で呼んだので、部屋に入ってみると、今まで作ってあげた折り紙が全部捨てずにかべや窓にかざってあった。私にとっては、適当に教えていた折り紙が、真弥ちゃんにとっては、こんなにも大切な物だったのかと思うと胸がじんわりと温かくなった。
 私は、真弥ちゃんから、人の心や物を大事にすることの意味を教わったような気がする。ありがとう、大好きな真弥ちゃん先生。

【小篠さんの作品に対する講評】

末尾にある「真弥ちゃんから、人の心や物を大事にすることの意味を教わったような気がする。ありがとう、大好な真弥ちゃん先生」に込められた思いが、交わした会話を入れながら素直に表現され、それが二人の表情と共に伝わり、胸が熱くなりました。

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中学生の部

僕と畑とお婆ちゃん
南山中学校男子部 三年 稲垣 俊介

 「なつかしき 婆と過ごした この畑 いまでは僕の 主戦場」
 去年の夏、僕の大好きだったお婆ちゃんは、七十八歳で天国へと旅立ちました。
 僕の家の隣には、約五十坪の畑があります。お婆ちゃんは朝早くから毎日畑の世話をしては、朝食に採れたての野菜を出してくれました。
「よーく見てごらん、うちの畑で採れた野菜はスーパーのと違って、葉っぱを虫に食われて穴が開いているよね。見栄えは悪いけれど、これは農薬を使わずに育てたから虫さんも、おいしいおいしいと言って食べるからなんだよ。でもね、決して農薬が悪い訳じゃないけど、世の中にはこういうモノもあるって事を覚えておくんだよ」
と話してくれたりもしました。
 当時の僕はまだ小さかった事もあり、お婆ちゃんの言うことが分かったのだか分からなかったのだかでしたが、学校で色々な事を勉強しているうちに
(あの時、お婆ちゃんが言いたかったのは、この事なんだ……)
と思う事が多々ありました。
 お婆ちゃんの言う事は、時には抽象的であったり、時には具体的に現代の地球環境の事だったり、かと思えばお父さんが生まれるよりもずっと前の話であったりと、僕と一緒にいる時は常にいろいろなお話を聞かせてくれていました。
 特に饒舌になるのは、学校が休みの時にお婆ちゃんと一緒に畑仕事をしている時です。
 農具の使い方や、野菜の育て方を教えてくれるのはもちろんですが、農家の方が育てた作物がどのように流通にのってスーパーの店頭に並んでいるのかとか、海外からの輸入作物と国内作物の関係・工業製品の輸出とのバランス、品種改良と種苗法の関係など。
 単に畑で野菜を作っているだけではなく、その事に関連付けて世の中の経済の仕組みや政治・国際情勢など、僕には遠い世界の話だと思っている事が、意外にもいろんな部分でつながっていると実感しました。
 ある時、お母さんに
「お婆ちゃんて、僕が学校に行っている時はなにしているの」
と聞いた事があります。するとお母さんは
「畑仕事がひと段落すると、午前中は大抵新聞を読んだり、ニュースを見たりしているよ」と教えてくれました。
 僕の知らなかったお婆ちゃんの一面を見たような気がしました。
 確かにお婆ちゃんは
「人間、興味を持たなくなったらおしまいだよ。勉強ってのは何歳になっても出来るものだし、大学へ行くためだけにするのが勉強じゃないよ」
と言っていました。
 事実、僕は新聞を読む習慣もなければ、自分から進んで学校の勉強以外の事をやろうと思った事もありませんでした。
 でも、これからは違います。お婆ちゃんから譲り受けたこの畑、既にいろいろ行き詰っています。この半年の間で、自分で図書館に行って農業の本を探すまでになりました。とにかく手探りでも、前へ前へ進もうとしています。
 僕の尊敬するお婆ちゃん。お婆ちゃんが大切にしていた畑は、僕がしっかり守っていくからね。

【稲垣さんの作品に対する講評】

読者を惹き込む表現力は秀逸。筆者の祖母は常に文化・社会・歴史に心を拓き、未来に向かって有機農法にも取り組んでいる。祖母は自分の考えを一方的に押し付けるのではなく、孫が自発的に選択する余地を残してくれた。人生の達人からの賜物がいかに大きいものかが響いてくる第一級の作文である。

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■ 学研賞

小学1~3年生の部

色をくれた先生たち
宗像市立自由ヶ丘南小学校 三年 藤木 入李

 学校がこわかった。
 先生がこわかった。
 一年生のときは、すきだった。
 だけど、こわくて行けなくなった。
 学校が黒くかんじた。
 黒い学校で、なんも見えなくなった。
 ほけん室とう校をしようと言われたとき、ちょっと黄色が見えた。
 こわい先生にあわなくてすむ、教室に行かなくてすむ。
 黄色は、たぶんきぼうだった。
 教頭先生と、たくさんあそんで、べんきょうもたくさん教えてもらった。
 小みや先生とは、たくさんあそんだ。
 田村先生は、ぼくをえがおにしてくれた。
 村山先生には、なわとびを教えてもらった。
 校長先生は、あんしんをくれた。
 先生たちのおかげで、黄色が強くなった。
 そして、楽しい赤が見えてきた。
 だれも、ぼくをたたいたりしなかった。
 きゅうにおこったりしなかった。
 だめって言わなかった。
 あんしんなピンクが見えた。
 でも、ぼくもこのままじゃいけない。
 つよくならなければいけない。
 がんばらなければいけないみどりがみえた。
 それから、オレンジ色の力もでてきた。
 先生たちもオレンジ色の力をわけてくれた。
 友だちも休み時間にきてくれた。
 ぼくは、一人じゃなかった。
 友だちのやさしさで、むらさき色がでてきた。
 だけどまだ、青がたりなかった。
 新しいたんにんの先生は、おくむら先生。
 おく村先生は、ぼくのお兄ちゃんの先生だった。
 しんようできる。
 なかよくなって、あんしんして学校に行ける青をふやす。
 そしたらぼくは、レインボー。
 だれにもまけない。

【藤木さんの作品に対する講評】

こわさは黒、きぼうは黄色、あんしんはピンク、がんばりはみどり、力はオレンジ、やさしさはむらさき。色って、それだけできもちを表現することができるんですね。そのときどきのきもちがすっと心につたわってきました。きっと青が加わって、レインボー色の学校生活が待っています。

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小学4~6年生の部

スーパードクター
川崎市立東菅小学校 六年 木村 守

 ピンチのぼくを、救ってくれた「スーパードクター」伸ちゃん先生。ぼくの人生を取り戻してくれた名医。
 小学二年生の頃、難しい病気にかかってしまい、ぼくは自由を失った。ぼくはペルテスだった。足の骨がえ死してしまう病気。一人で立つことを禁止され、車イスに乗せられた。
 医学の世界でも、まだ「ペルテス」は全てが解明されていないと伸ちゃん先生は言っていた。特効薬はない。二年間、装具をつけて骨を守る。足の骨をつぶさないように生活する。自然に骨が硬くなるのを待つ、それが治療法。
 謎の病気、ペルテス。母ちゃん、父ちゃんも聞いた事がない。じいちゃんも、ばあちゃんも、知らない病気。ドクターだけが、頼りだけど十万人に数人という確率の病気。伸ちゃん先生は、何人この病気を治療したのか。心配顔のぼくに気づいた先生は、まっすぐにぼくを見ていった。
「大丈夫。先生が治してあげるよ」
「何人も治療してきたから安心して」
 力強い言葉に少し心が軽くなった。でも、でも、こわかった。大人になって歩けないって事はないのかな。上手く治らない時はどうなってしまうのだろう。
 MRIをやり、レントゲン写真を撮った。骨の中心までチェックして、装具を使いこなせるようになるまで二ヶ月の入院。検査以外はベッドにいるのかと思ったら、院内学級に通えるように、伸ちゃん先生が許可を出してくれた。病室まで、伸ちゃん先生は何度も来てくれて励ましてくれた。院内学級で友達もでき、自分だけが大変な病気になっている訳ではなく、みんなそれぞれ戦っているのだと知った。
 退院し、装具を付けての自宅治療。ペルテス以外は近所の病院で受診するようにすすめられていたので、虫歯の治療に近所の歯医者へ行った。装具を付けて登場したぼくをみて、受付のおばさんが
「守君、ペルテスなの」
と、声をかけてきた。ペルテスを知ってる人がいた。ビックリした。おばさんの息子さんが十数年前、ペルテスだった事を教えてくれた。今、大学生になりテニスサークルに入って活動しているそうだ。希望が見えた。しっかりと治り、スポーツができるのだ。ぼくは、うれしくなった。
 さらに、どこの病院だったかと、ドクターの名前を教えてくれた。なんと、それは伸ちゃん先生だった。ぼくは確信した。伸ちゃん先生を信じ、言われた事をしっかりやれば、完璧に治る。自由を取り戻せる。人生をあきらめる必要なんてない。
 五年生の春、装具を外すことを許された。完治まであと少し。
 伸ちゃん先生、ありがとう。
 ぼく、ペルテスに勝ってみせるよ。

【木村さんの作品に対する講評】

難病の「ペルテス」に罹患した筆者が、スーパードクター「伸ちゃん先生」に出会い、「ペルテスに勝ってみせるよ」と完全治癒の一歩手前まで到達した。短文をリズミカルに重ねて筆者の心を見事に表現している。文章の組み立て方が特にすばらしい作文である。

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中学生の部

ひきこもり先生の生きがい
名古屋市立若葉中学校 二年 薛 知明

 「お父さんはね、日本に来る前、香港で中学の先生をしていたんだよ」
 母の言葉に思わず「うそ」と叫んでしまった。私が物心ついたとき、すでに父はひきこもりだった。私の家は全員が発達障害を抱えているが、特に父は「社会性が壊れてしまっている」とソーシャルスキルの先生から言われたほど症状が一番重い。いつ寝ていつ起きるのか全く予測がつかず、食事はいつも同じカップ麺を一人で食べている。電気を消した真っ暗な部屋でガラケーの画面だけを見つめ、ひたすら世界のニュースを検索し続ける父。話しかけただけで怒鳴られることもあり、小学生時代の私は、時折うめき声や叫び声が聞こえてくる父の部屋にはなかなか近づけなかった。
 昨年、新型コロナによる休校のまま迎えた中学一年の新学期。
「休校中、お父さんが英語と社会科を教えてくれることになったよ」
 母からそう聞いた瞬間、冗談かと思ったが、母が父に頼んだところ「いいよ」と答えたらしい。英語は父の生まれた香港の公用語の一つ。そして父の専門分野は歴史だった。
 びくびくしながら受け始めた父の講義。私にとって慣れない英語の発音では舌が絡まってしまうこともあったが、時折声を荒げながらも父は「口の形をよく見て、真似をして」と、歯がほとんど抜け落ちてしまった口で一生懸命に発音してくれた。また、専門外の日本史だけはお手上げのようだったが、「一緒に勉強する」と学習漫画を読みあさり、人名などを紙に書きながら教えてくれた。父の講義内容は教科の枠を軽々と飛び越え、国際情勢や海外の文化、習慣などを三時間ぐらい話し続けることもあった。思わず聞き入ってしまい、気がつけば夜の十二時を過ぎていたことも。そんな脱線話の最中、何かを思い出した父が笑い転げ、つられて私も笑ってしまうことが何度かあった。私は気づいた。父は「先生」という立場であれば、人とコミュニケーションができるのだと。
 学校が再開した今でも、父の講義は週に一、二回行われている。父と笑いあえる日が来るなんて、数年前の私には想像もできなかったが、今では、スーツ姿で教壇に立つ昔の父の姿を思い浮かべることもできる。
「ひきこもりだっていいんだよ。楽しみや生きがいを持っていればいずれ戻ってこられる。昔の私がそうだったように」
と母は言う。私の主治医の先生も、
「お父さんが家庭教師でいいね。お父さんも自分の役割、生きがいができてよかったね」
と言ってくださった。
 定期テストで英語が満点、社会もクラスで一位になったとき、また「きれいなイギリス英語」と私の発音がほめられたときなど父は大喜びだった。私は父の生きがいになれて、生まれてきて本当によかったと思った。もうすぐ学校の国語で漢文を習うが、それも教えてもらおう。高校でも、そして大学でも。母は、修士論文を父に手伝ってもらって完成させたと言っていた。だからきっと大学院でも。
 昔のことや世界のことなど、父の知識を独り占めできる私は幸せだ。父にはずっと私の「先生」でいてほしいと思う。

【薛さんの作品に対する講評】

お父さんから学んだ知識と培われた関係は素晴らしいですね。知明さんが書かれている「父の知識を独り占めできる私は幸せだ」からもそのことがよく伝わってきます。これからもお父さんから沢山のことを学んでください。そして関係を深め、更に新たな一面を見つけてください。

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■ 入賞

小学1~3年生の部

おかえりなさい、先生
敬愛小学校 三年 安田 彩乃

 「四つ葉のクローバーがゆれるころになったら、先生がもどって来るよ」
 これは、悲しむ私にお兄ちゃんが言ってくれた言葉です。先生の名前は、むなかた先生。先生は、私が一年生の時、赤ちゃんを産むために学校をお休みしました。私はむなかた先生が大すきでした。だから、先生が学校にいない事が、悲しくて仕方ありませんでした。
 さびしがる私を見て、お兄ちゃんが、四つ葉のクローバーの話をしてくれました。四つ葉のクローバーは、見つけた人にしあわせを運んでくれるというお話です。私は、先生に会える日が早く来ますようにとねがいをこめて、この日から、四つ葉探しを始めました。
 あつい夏も、寒い冬も、時間があるとかならず、クローバーを探しました。でも、四つ葉はなかなか見つかりません。それでも私は、あきらめませんでした。むなかた先生が、まっているような気がしたからです。
 そしてこの春、私は三年生になりました。温かい風がふくと、心がふわっとして、元気がわいてくるからふしぎです。今度こそ、四つ葉を見つけられる気がしました。わたしはねがいをこめて、一生けんめい、クローバーを探しました。そして、公園のすみに、小さな四つ葉を見つけました。わたしはうれしくて、とび上がりそうでした。今年はきっと、先生に会える。わたしはワクワクする気持ちでいっぱいでした。
 四つ葉のクローバーは、本当にしあわせを運んできてくれました。むなかた先生が学校にもどってきてくれたのです。それだけでなく、わたしの担任の先生になりました。こんなにうれしい事は、どこを探しても見つかりません。この四つ葉をあげたら、先生にも良いことが起こるかな。わたしは四つ葉をしおりにして、先生にプレゼントしました。先生がとびきりのえ顔でよろこんでくれたので、わたしは最高にしあわせな気持ちになりました。
 今、わたしは毎日学校が楽しいです。むなかた先生とたくさんお話をして、いっしょにわらい合えるのが、うれしくてたまりません。先生、おかえりなさい。わたしの先生になってくれて、ありがとう。

【安田さんの作品に対する講評】

大好だいすきな「むなかた先生が」3年生担任になった時の彩乃さんのうれしそうな表情ひょうじょうかんできます。四つ葉のクローバーの力は偉大いだいですね。ただ、先生と会えたことは、クローバーだけの力ではなくて、彩乃さんが先生のことを思う気持ちが、四つ葉のクローバーを見つけ、そして、再び、むなかた先生に会えたことにつながっていると思います。

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マスクをはずした本当の先生の顔
大分大学教育学部附属小学校 三年 藥師寺 真杜

 目はいつもわらっているけど、二年生のぼくの先生の本当の顔ってどんな顔かな。
 コロナでいつもマスクをしているから、先生の本当の顔がわからない。クラスのお友だちの本当の顔もあまりよくわからない。
 一年生のおわりにコロナできゅうに休校になり、二年生は休校からはじまった。
 コロナの前は、先生もお友だちの顔もちゃんと見えたけど、コロナでマスクをして学校に行くようになったから、目しか顔がわからなくて、学校に行けるようになったのはうれしいけど、前とはちがう場所にきたみたいではじめはすごくへんな気分だった。
 でも先生の目はいつもわらっていて声がすごく明るい。だからマスクをしていてもこわくなかったから、安心した。ぼくもまねしてみることにした。
 ニコニコ目をすると楽しいことがたくさんふえた。新しいお友だちもいっぱいできた。
 つかれているのかな。外を歩くとき、みんなマスクをしていて目がこわい人が多い気がする。ぼくの先生みたいにニコニコ目をしたらもっと楽しくなるのにとおしえてあげたいな。
 先生はスマイル名人で、いいところをさがすのが上手だ。
「がんばったね」
「やさしいね」
とか言われてうれしい言葉をたくさん言ってくれたからうれしかった。
 きゅうしょくの時、みんながマスクをはずすから、その時にみんなの本当の顔を見るのがぼくの学校での楽しみになった。おいしいし、みんなニコニコしているしマスクをはずして本当の顔が見ることができてうれしい。
 先生の本当の顔もわかった。やさしい顔をしていた。
 早くむかしみたいにマスクをはずしたいろいろな人の顔が見たいな。
 手あらい、うがい、そして先生におしえてもらったスマイルとかを大切にしてコロナにまけないように気をつけて、今できる楽しいことをいっぱい楽しもうと思う。

【藥師寺さんの作品に対する講評】

先生の顔をりたいというねがいは人を見る目をていねいにしてくれる。目がわらっている、声があかるい、いいところをさがすのが上手、など、五官ごかんをはたらかせ五感ごかんをとぎすませて、先生の人柄ひとがらまであててしまう。でも、やはり、マスクをかけずに会話かいわする日がまちどおしいですね。

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小学4~6年生の部

僕の偉大な生徒
敬愛小学校 六年 安田 悠真

 僕は先生だ。僕の担当教科はパソコン。教える時は、いつも少し緊張する。なぜなら、生徒がいつでもまっすぐに僕を見つめてくるからだ。僕の生徒は、たった一人。祖父だけだ。祖父は年齢の差なんてものともせず、分からないことは授業の途中でもどんどん聞いてくる。ちょっとやっかいで、その分、誰よりもかわいらしい生徒だ。
 つい最近までは、祖父こそが僕の先生だった。体育教師だった祖父は、僕にとって、スポーツ万能のスーパーマン。恥ずかしがり屋の僕に、体を動かすことの楽しさを教えてくれた。速く走りたいなら、腕を大きく動かす事。高く跳びたいなら、助走をつけて一度沈む事。そして、失敗を恐れず挑戦する事。スポーツだけでなく、毎日の暮らしを楽しむコツを、僕は祖父にたくさん教わってきた。祖父はいつでも、僕の自慢の先生だった。
 僕が高学年になったある日、祖父が
「パソコンを教えてほしい」
と言ってきた。僕は心底驚いた。祖父はいつも自分の前を走っていて、困った時にはそっと導いてくれる、師匠のような存在だったからだ。その祖父に肩を並べるどころか、追い越して先に走ってしまうような事が、僕にできるだろうか。僕の戸惑いを感じ取ったのだろうか、祖父は笑って、
「久しぶりに、生徒に戻ってみたくなってね。悠真が先生になってくれたら、最高だ」
と言った。僕は意を決してこの話を受けた。祖父が喜んだのは言うまでもない。
 こうして、僕と祖父の授業が始まった。生徒である祖父は、なかなかに手強い。駆け足で教えると、もっとゆっくり、と注文が入る。三段跳びで教えると、一歩一歩着実に、と指摘される。その上、授業後には一人で復習して、学んだことはしっかり身に付けている。僕は祖父の吸収力に驚きながら、ひどく焦っていた。祖父に教えられる事は、もうほとんどない。それどころか、祖父の方がパソコンの先生と言ってもいいくらいだ。祖父は僕との授業を、つまらないと思っていないだろうか。授業が始まって三ヶ月たったある日、僕の気持ちを察したのか、祖父が言った。
「パソコンは楽しいな。でも、一人で復習すると、何か違う。教わった通りにやって、できているはずなのに、何だかさびしいんだよ。達成感が足りないんだ。先生の力って大きいんだな。孫に教わったよ。なあ悠真。これからも、私の先生でいてくれるかい」
 僕は何も言えなかった。その代わり、大きくうなずいて見せた。祖父の言葉が胸に響いて、ただじんわりと嬉しかった。誰かに教える、誰かから教わるという事が、こんなにも互いの心を温めるという事に感動していた。やっぱり祖父は、僕の先生だ。僕は祖父の偉大さを改めて感じた。
 今週末も、祖父と授業を行う。祖父はどんな顔をして待っているだろう。どんな難題を言ってくるだろう。僕は今週も大変だぞと思いながらも、楽しみでたまらない。僕を先生にしてくれた、偉大な生徒に感謝している。

【安田さんの作品に対する講評】

かっこいいおじいちゃんがいるんですね。うらやましい。そのおじいちゃんが、自分の生徒になるという設定がとても面白かったです。生徒としてのおじいちゃんの姿からも、あなたは大切なことを学び取りましたね。その姿勢も素晴らしい。視点が二転三転しながら高まっていく、みごとな作文でした。

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永遠の先生
宇都宮大学共同教育学部附属小学校 六年 岩佐 葵

 私にとって初めての先生は祖母だった。
 夏休みに会いに行く度に、様々なことを教えてくれた。昔の手遊びや童謡、珍しい動物や初めて食べる果物など、祖母と一緒に楽しく覚えた記憶が今でも鮮明に残っている。お墓参りの所作のように、普段の生活では体験しないことも祖母と一緒に覚えた。年を重ねるごとに、その内容は難しくなっていった。幼稚園に入園すると鉛筆の持ち方や字の書き方、小学生に入学すると九九も教えてくれた。頭の体操と言って、ジグソーパズルに一緒に向かったこともある。私が少し苦手にしていた算数の文章問題も祖母と一緒に解いた。優しく丁寧に根気よく教えてくれる先生だった。祖母は八十才を超えていたが、解けない問題はなかった。そんな祖母が自慢でもあった。
 最初に異変に気が付いたのは父だった。物忘れとはどこか違う祖母の様子。何度も同じことを話す。すぐに不安になって何百回も電話をかけてくる。呼吸ができないと言って毎日救急車を呼ぶ。つい昨日まで使えていた洗濯機の使い方が分からない。アルツハイマー型認知症の初期症状だった。そして、日を追うごとに、少しずつ祖母は変わっていった。
 アルツハイマー型認知症は大脳皮質が萎縮し、記憶と認知の障害が生じる病気である。簡単に言うと、記憶がごっそり抜け落ちるようなものだ。祖母は電気製品の使い方や最近の記憶が失われていることが多かった。しかし、不思議なことに算数や国語など、いわゆる勉強と言われるものの記憶が失われることはなかった。そのため、アルツハイマー型認知症と診断された後も、私は以前と変わらず、祖母に算数を教えてもらい、一緒に本を読んだ。実は、祖母は七十才まで学習塾の先生だった。約五十年という人生の大半を先生として生きてきた祖母にとって、「勉強」は土台でもあり強い記憶として残っているのではないか、と担当医師が話してくれた。
 だが、そんな祖母にも病は容赦なく浸潤していく。まず、本を読むことが難しくなった。文字を判別することは可能だが、内容が理解できないようだった。次に書けない漢字が増えてきた。祖母は病気になる前から日記をつけており、それを見ると当時の症状が一目瞭然だった。算数の文章問題も厳しくなった。このころには家族の名前や顔をおぼえていないことも多く、認知症は間違いなく祖母の脳を蝕んでいった。しかし計算力だけは衰えていなかった。施設のスタッフの方にも驚かれるほどであった。計算ドリルの丸付けをしてもらうなど祖母は相変わらず私の先生だった。
 新型コロナウイルスの影響で面会できなくなって一年、祖母は眠ったまま息を引き取った。しかし、祖母は私の先生として今もここにいる。その秘密は日記にある。記憶が抜け落ちていくことを自覚していた祖母は、頭の中の知識を日記に書き込んでいた。そして私への想いもそこには書かれていた。今日も勉強の合間にノートをめくり、祖母に教えてもらおうかな。

【岩佐さんの作品に対する講評】

お祖母様にとっても葵さんとの関わりが幸せな時間だったと思います。お祖母様の知識が集積された日記、これからもずっと葵さんの学びも心も豊かにしてくれる宝物ですね。

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中学生の部

才能と苦悩の比例
横浜女学院中学校 三年 栗田 空音

 「先生」という存在をなんて表していいかわかりません。友達みたいで家族みたいで、でも他人で、それでも私たちにとって先生はいないと困る、そんな存在です。
 私にとっての先生は私の幼馴染です。同い年の子が先生、と聞いて違和感を覚える人も少なくないと思いますが、私にとっては本当に大切な存在です。二歳のときから一緒にヴァイオリンを始めて、でも彼には圧倒的に私よりも才能があって、そんな関係でした。世界レベルの若き才能といわれるレベルまで上り詰めた彼に対して何の才能もなくて全然前に進まない自分に対してひどくがっかりしたことを覚えています。
「私の方がたくさん練習しているのに」
「私の方が頑張っているのに」
「私の方がお金だってかけているのに」
 本当は彼が努力していることもわかっていたのに嫌味なことを言ってしまったこともありました。あるとき彼とLINEをしていた時、進路の話をしていました。何の迷いも悩みもなく音楽の道に進む、という彼に腹が立って思わず「才能がある人は何にもしなくても注目してもらえて収入があっていいね」とひどいことを言ってしまいました。既読になったままそのままに時間が過ぎて返信がありました。
「才能なんかないし必死に練習しているわけでもない、でも俺にはヴァイオリンしかないからひたすら弾き続けることしかできなかったんだよ」
 いまいち彼が何を言いたいのか分かりませんでした。映画のセリフじみた意図のある言葉がよくわからないまま、いきなり電話に切りかわって驚いて出るとなんと彼が泣いていたんです。なんで彼が泣いているのかわからないけどこっちまで泣きそうになるか細い声で彼が鼻をすすりながら言いました。
「できなくてもやりたくなくても、選ばれたらひたすら弾き続けるしかないんだよ。実力以上のスポットライトを当てられて実力以上の金をもらっても高いスーツ着て演奏するよりも俺は友達とゲーセンに行って友達と遊んでいた方が幸せだ」
 はじめて彼が苦しんでいたことを知りました。実際それに納得しているのか、と言われたらわかりません。才能があるからこそ一生音楽と向き合っていくのになんで彼がそれで幸せじゃないのかわかりません。それでも自分が選ばれたことをしっかり受け止めていることなど尊敬するところがかれにはたくさんあります。
 たったの一日の出来事でしたが確実に彼が放った言葉は私の視野を広げました。幼い頃からクラシック音楽の世界を近くで見てきた私たちにとって音楽で成功することが約束されている人がどれだけ少ないのか知っているつもりでした。だけどそれが必ずしも幸せではない。そんなことを彼から学びました。彼の悩みに共感することもできないし、解決することもできないけれど、「幸せ」は定義づけられない、ということを彼から学んで、このことをほかのだれかに伝えてその人の気持ちを少しでも和らげられるような存在になりたいと思いました。彼は私の先生です。そして私も誰かの先生になれる、そんな人間でありたいな、とおもいます。

【栗田さんの作品に対する講評】

「先生」は二歳のときからヴァイオリンを始めた友達である。才能があり将来の成功を約束されたように見えた友達が、葛藤や苦悩を抱えていた。「幸せ」は人によって異なることに気づかせてくれた。書き出しから結末まで内省過程を語り紡いだ秀逸の作文である。

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自信の種
宗像市立自由ヶ丘中学校 二年 伊賀﨑 剛

 僕の学年では、「小春日和」という配布物が時々配られる。季節の花やその花言葉、その花にまつわる俳句。花の絵も手描きで描かれている。小春日和の内容はというと、その時々によって違うが体調を整える工夫であったり、学校行事について書かれていたりする。そして特徴的な野菜をモチーフにしたオリジナルキャラクター達。一体この配布物は誰が書いていると思うだろうか。国語の先生? 保健の先生? 学年主任の先生が書く学年だより? 答えは数学の先生で、この小春日和は数学の配布物なのである。
 一年生の時から配られているこの小春日和は、僕にとってはとても不思議な配布物だった。数学の事ももちろん書いてあるのだが、なぜわざわざ手描きで絵を描いたり、数学に関係のない事まで書くのだろう。数学の中島先生はちょっと変わった先生だな、と僕はずっと思っていた。
 一年のある時の授業で中島先生が昔話をしてくれた事があった。中島先生が学生の時、テストで時間があまると答案用紙の裏によくミニマンガを描いていたそうだ。僕達がやると怒られそうだと思う事だが、この中島先生の先生は
「テストはせんでいいけん、マンガの続きを描け」
と言ってくれたそうだ。今でも絵を描く事が好きだという中島先生にとって、この先生の冗談のような一言はきっと中島先生の大きな自信の種になったのだと思う。あんなに手のかかる絵を描いてまで、小春日和を出し続けている理由が分かった気がした。
 僕は、作文を書くのが嫌いだ。案はいっぱい浮かんできて頭の中ではたくさんの文章が出来るのに、原稿用紙に書くとなると、とんでもなく時間がかかる。一文字、一表現でも間違えるとそれまで書いていたものが全部書き直しになる事だってある。自分の字が汚いのも嫌だ。でも文章を考えるのは本当に楽しい。アイデアを小さなメモやノートのはしに好きなように書くぐらいが自分にはちょうどいいと思っている。
 一年の三学期の終わり、数学の時間に配られた小春日和を見ると、学年レクレーションの感想文が数名分載っていた。その中の一つに僕の感想文もあった。パソコン打ちで誰が書いたか分からないように名前も無かったが、それがかえって僕はとてもうれしかった。書きなぐりの、整ったものでなくても、中島先生は僕の文章を見つけ出してすくい上げてくれた。そんな気がした。中島先生もまた、僕の中に大きな自信の種を植えてくれた。それをどう育てるのかはこれからの僕次第だ。だから中島先生に感謝の気持ちを込めて、僕の嫌いな作文を書く。

【伊賀﨑さんの作品に対する講評】

あなたは「作文を書くのは嫌い」と言いますが、「でも文章を考えるのは本当に楽しい」とも言います。プロとしてはっきり言います。あなたの文章は一流です。楽しみながら考えているのが伝わってきます。時間がかかるのなんて気にしないで、字が汚いのも気にしないで、作文用紙のマス目も気にしないで、その調子で、ノートの端っこにたくさんのアイデアを文章にして書いてみてください。気づけばきっと素晴らしい作品になっているはずです。

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味方
日本大学第三中学校 三年 木村 創

 二十年前まで、小学校の先生だったおじいさん。図書館に行くと、いつも会うおじいさん。お利口だと言って、会うたびに、僕の頭をなでてくれる。そう、それが関先生。
 いつだって僕の味方をしてくれる。母さんに怒られても助けてくれる。とびきり優しいおじいさん先生。
 定年退職をしても、僕たち家族を見守ってくれていた。ある日、ポストに入っていた先生お手製のひらがなドリル。あれは、小学校入学の少し前。ひらがなが、まだ全部書けない僕のため、関先生が作ってくれた。一ヶ月たち、カタカナと九九のドリルも作ってくれた。
 売っているドリルなんかより、大きいマスでやりやすい。みるみるおぼえることが出来た。勉強が出来ないと、怒る母さんとは全然違う。どんな時でも励まし、褒めてくれる。
「一年生は、まだまだ赤ちゃんと思っていいんです。出来ない所も、全部かわいいでしょ。もう少し、学年が上がったら、お兄さん扱いしてあげましょう」
と、母さんに言っていたのを憶えている。母さんと僕、両方の偉大な先生なのだ。
 自由研究で表彰された時、作文でかわさき文詩集に掲載された時、真っ先に報告に行った。僕の作文をコピーして、大切にすると言ってくれた。
「力強い、いい文章が書けているね」
と、目を細めて笑ってくれた顔を、今でも憶えている。
 中学生になってから、あまり会えなくなってしまった。高齢でだんだん耳も遠くなってしまったようだと、母さんから聞いた。現在、コロナ禍で万が一、僕が菌を運んでしまうといけないから、会うことが出来ない。関先生には、まだまだ元気でいてほしい。そう願っていた矢先、
「関先生、三ヶ月前に亡くなったそうよ」
帰宅した母さんは、リビングでゲームをする僕に向かって言った。ビックリして手が止まる。全身を衝撃が走った。
 コロナ禍だから、葬儀は家族だけで行った。だから、知らせが来なかったのだろう。僕は、お別れが言えなかった。あんなに、かわいがってもらったのに。
 母さんに怒られても、勉強が嫌いにならなかったのは、関先生が、いつも無条件で褒めてくれたから。「おはようございます」「こんにちは」挨拶するだけで、うれしそうに笑顔をくれた。「エライ」「すごい」と声をかけてくれた。
 関先生、僕はいい生徒でしたか。
 テストは百点取れないけれど、立派な高校生になれるように頑張るよ。成長する僕を、空の上から見守っていてください。

【木村さんの作品に対する講評】

決して大げさな表現を用いない、淡々とした落ち着いたトーンの文章なのに、関先生への尊敬の念、憧れ、感謝、そしてさみしさがにじみでて、読む人の心にまで染み渡ります。ちょっとプロっぽく解説すると、行間の力ですね。自分の心を真っ直ぐにとらえつつ、余計なことは考えずに淡々と書くと、文字にはできない心の機微を、行間に宿すことができます。見事に行間が生かされている作文でした。

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■ 海外賞

海外日本人学校等からの応募作品に贈られる賞です

小学1~3年生の部

またあおうね、せんせい
トリノ補習授業校(イタリア) 小学一年 細川 ルカ

 ぼくは、イタリアのトリノにすんでいます。そこで、イタリアのようちえんにいっています。ぼくのせんせいのなまえは、ティツィアナです。みんなはティッツィーとよんでいます。かみのけがぼくとおなじでくるくるです。ぽっちゃりしていてママよりうんとおおきいです。いつもやさしくて、よく
「ハッハッハッ」
とわらいます。それがおもしろくて、こころがうきうきします。
 さいしょぼくはようちえんにいくとき、くるまでいつもおなかがいたくてたまにはいていました。だからようちえんについたら、ママといっしょにすわっていました。ママがだっこをしてもなおりません。じかんがきてせんせいがだっこからのけました。ぼくはいやなこころで
「ママー」
といいました。でもママはいきました。せんせいはよしよししてくれました。そのあとみんながあさごはんをたべているとき、だっこをしてくれました。こころがドキドキしました。でもそのおかげでだいじょうぶになりました。
 ぼくは、イタリアでは九月に一ねんせいになるので、せんせいとはバイバイになります。せんせいはおこるとおおきなこえでいうからこわいけど、いつも
「チャオ」
といってぎゅっとしてくれます。それがいつもうれしくて一にちいいきもちになります。だから、まだせんせいといたいです。でもおもいでがこころにあるから一ねんせいになってもいいかなとおもいます。それにぼくのしょうがっこうはせんせいのいるようちえんの上にあるから。だからあえるはず。

【細川さんの作品に対する講評】

ティツィアナ先生せんせいの「ハッハッハッ」って、ルカさんをはじめ、まわりにいるみんなをあたたかくつつむのだろうとかんじました。「チャオ」とぎゅっとされてうれしそうなルカさんの様子ようすかびます。「おもいでがこころにあるから」は、ルカさんのおもいをうつした素晴すばらしい言葉ことばですね。

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小学4~6年生の部

ありがとう、先生
オタワ補習校(カナダ) 小学六年 東村 滉

 ぼくはカナダに住んでいるけど、「どの国が一番好き」と聞かれたら、必ず「日本」と答える。「サッカーはどのチームを応援する」と聞かれても、必ず「日本」と答える。とにかくぼくは、日本が大好き。でも、ぼくが小学三年生だった時、自分が日本人だと思われたくない、日本のことを話したくない、そんな時期があったんだ。
 当時、ぼくの学校ではE-Palsを使った授業を行っていた。E-Palsは、外国の子供たちと、Eメールやビデオメッセージを送り合い、互いの文化や歴史を学び、国際交流するというものだ。これまでに、ガーナやスウェーデンなど、世界各国の子供たちと二か月毎に交流してきた。
「来週からのE-Palsは、韓国だよ」
担任のストラットフォード先生の言葉に、ぼくは目を輝かせた。韓国と日本はお隣同士。文化が似ている気がして、ワクワクしたからだ。でも、この授業がぼくにとって、辛くて悲しい日々の始まりとなった。日本と韓国が戦争をしていたことを知ったからだ。
「日本が韓国にひどいことをした。日本人が韓国のトラをたくさん取った」
韓国の子供たちが悔しそうに言う姿が、頭から離れない。
 ぼくが日本人だと知ったらどう思うだろう。嫌われるんじゃないか。そんな不安でいっぱいだった。カナダには様々な民族が生活している。この出来事をきっかけに、日常で出会う人でさえ、自分が日本人だということを隠すようになった。
 明日はいよいよ韓国のE-Palsに一人ずつビデオメッセージを送る日。胸が重くて、苦しくて、先生の説明が全く頭に入らない。ずっと下を向いたまま動けなかった。普段は誰よりも積極的に発言するぼくが、だ。
 授業後、先生がぼくを呼び止めた。
「何かあった?」
授業態度を叱られると思っていたのに、先生の言葉は優しかった。ほっとした気持ちと、明日への不安、その二つがぐちゃぐちゃになって、涙があふれ出した。
「韓国の子供たちに話すのが怖くてたまらない。日本人のぼくは嫌われる」
泣きながら訴えるぼくに、先生は言う。
「日本が酷いことをしたとしても、滉君がしたわけじゃない。滉君を嫌いになることもない。過去の歴史は変えられないけれど、未来は滉君たちが作っていくんだよ」
 確かにそうだ……。先生の言葉にはっとした。不安は消えないけれど、もしかしたら友達になれるかもしれない。堂々と話してみよう。
「ぼくは滉です。おすしが大好物の日本人です。韓国の棒投げの遊び、面白いね」
 一週間後、韓国のE-Palsからメッセージが届いた。
「滉君こんにちは。ぼくは日本のたこ焼きが好きだよ。また話せるのを楽しみにしているね」
嫌われなかったんだ……。長いため息とともに、胸の底にしずんでいた重い石が、ようやく溶けて無くなった気がした。
 ぼくたちは戦争をした過去や、それぞれのバックグラウンドは変えられない。だけど、今のぼくたちが向き合えば、国籍に関係なく仲良くできる。平和な未来を作っていける。ぼくを不安から救い、勇気を与えてくれただけでなく、未来につながる大切なことを教えてくれた先生。この先もずっと先生の言葉は、ぼくの心の支えになっていくだろう。

【東村さんの作品に対する講評】

日韓の歴史を知って、気落ちしている滉くんに、担任のストラットフォード先生は「過去の歴史は変えられないけれど、未来は滉くんたちが作っていくんだよ」と語った。この言葉に、滉くんは、“歴史に学び、今日をていねいに生きる。そうすれば、僕たちが平和な未来を作れるはず”と悟る。国際交流の最前線にいる滉くんの作文から大切なことを学ばせていただきました。ありがとう、滉くん。

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中学生の部

先生らしさは、皆無の母だが
オタワ補習校(カナダ) 中学一年 田中 莉於奈

 母は変だ。
 よくわからないタイミングで踊りだすし、私もそれに乗せられ、踊りたくなってしまう。私はどちらかと言うと学校では大人しい方だ。その私が、母に乗せられて踊りだすなんて、どうかしている。実際、母が踊っている動画を、本人が怒っている時に見せたら、母本人も手を叩いて大喜びしてしまった。そう、母の踊りは、見ていると、愉快な気持ちになるのだ。

 母はナルシス……いや、自己肯定感が大変強い人である。
 母はとてもよく失敗する人で、三つのことを同時にすると五つくらい何か間違える。しかし、
「今日も間違いを五つもみつけ、立ち直った。褒めよ、褒めよ、さあ、褒め称えよ!」
と、妙に偉そうだ。

 けれど、母は時々すごいところを、チラッと見せることがある。
 母は、五十四歳の時に大学生になった。カナダの大学生だ。
 長崎県佐世保市には、大きなアミューズメントパークがあり、そこには日本に三台しかない、カリヨン(組鐘)という楽器がある。彼女は、そのパークの大ファンなのだが、そこのカリヨンが、カリヨネア(カリヨン演奏者)が少なすぎるために使われずに忘れられているのを知り、
「じゃあ、私が弾く」
と言って、突然音楽の勉強を始め、カールトン大学のカリヨン専攻科に合格してしまった。カールトン大学はカナダで唯一、カリヨンが学べる大学なのだ。なかなかすごい。
 しかし、それは唐突なことで、娘としては、かなり迷惑でもあった。どこが迷惑かと言うと、聞いてもいないのに、カリヨンの豆知識を教えてくるところだ。例えば、
・二十三個以上の鐘で構成されるのがカリヨンで、それ未満のものはチャイム
・カリヨンは鐘一つ一つとキーボードのキーが繋がっていて、拳を握った形で演奏する
・カリヨンの本体は鐘なので、その倍音は、通常の楽器とは異なり、マイナー三度を含み、メイジャー三度は含まない
などだ。母にとっては大事なことらしいが、私にとってはかなりどうでもいい。どうでもいいのに、私が覚えてしまうほど、母は目を輝かせながら繰り返した。迷惑だがすごい、すごいが迷惑だ。

 母は意外に努力家である。そう、意外に。
 彼女は、英語が極端に苦手で、できれば英語を使わずに、カナダに住みたいと思っているようなのだ。だから、普段は英語を極力避けている。好き好んで大学に行っていながら、
「小さな英語の文字で書いてある教科書は、老眼の目には辛い! 宿題が終わらない!」
と、ぶつぶつ言っている。ぶつぶついいながら、「宿題が終わらない歌」を口ずさみ、曲に合わせて謎の舞踊を踊って、ガリガリ勉強する。そして、ガリガリ勉強する母の成績は驚くほど良い。母の成績はオールAで、一番悪いのがA、通常はAプラスなのだ。恐ろしい。Bの何が悪いんじゃあ!

 変な踊りを踊りながら、ガリガリ楽しそうに勉強している母をみると、「ああ、人生、アレでいいんだ」と安心できるし、小気味良い。そして、そんな母を、私はとても尊敬している。

 母は変だ。
 しかし、私は、母を人生の先生として見ている。先生らしさは、皆無の母だが。

 ……それでも、母はやっぱり変だ。

【田中さんの作品に対する講評】

破天荒なお母さんのキャラクターを見事に描けています。こういうひとの魅力って、言葉では伝えづらい筈なんです。でも、しっかりと伝わってきます。説明しすぎていないで、読者にうまく想像させるのもうまいと思います。ところで、お母さんをここまで客観的に描ける娘さんも、きっと相当に変なのだと思います。その変であることを、これからも大切にしてください。

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