表彰式・作品レポート

■第5回子ども作文コンクール応募点数
ブロック 東日本 西日本 海外 合計
小学1~3年生の部 174 74 27 275
小学4~6年生の部 212 229 24 465
中学生の部 741 620 11 1372
合計 1127 923 62 2112

今年は国内からは2050点、海外は12の国から62点の作品が集まりました。
2023年11月19日に、明治記念館 富士1にて、表彰式を開催しました。第15回環境教育ポスターコンクール表彰式との同時開催です。会場には受賞作品が展示され、審査委員による講評も同時に掲載されました。

会場の様子 展示の様子

子ども作文コンクール表彰式では、受賞者に表彰状・副賞が授与されました。文部科学大臣賞の受賞者からは、受賞した作文を朗読していただきました。

作文授与の様子 作文朗読の様子

受賞者による作文朗読の様子はこちらの動画でご覧いただけます。

  • 【文部科学大臣賞】
  • 葛飾区立青戸小学校3年 澤地 柑奈
  • 鎌ヶ谷市立五本松小学校6年 渡辺 響己
  • 立命館慶祥中学校2年 髙畠 孝太朗

式の最後に、審査委員長のおおたとしまさ様より、作品全体の講評をいただきました。

受賞者の皆様、おめでとうございます。

今回のコンクールに2000点以上の作品が集まりました。いずれも大変すばらしい作品でした。ですから、今日ここにきていただいた方は、2000点以上の作品の代表として賞を受け取った、と思っていただければと思います。

今年はようやく新型コロナウイルスの行動制限が解除されました。コロナで休校だった頃の作文も、非常に工夫が凝らされていて読み応えがあったのですが、どうしても「先生」と作者の距離感を感じる作文が多かったように思います。今年は、「先生」との直接のふれあい、「先生」のぬくもりが伝わってくる作文が、一気に増えたように感じました。

審査を通して、私は皆さんの作文から、皆さんの「先生」を紹介していただきました。学校の先生だけでなく、身近な人や、周りの自然を「先生」と捉えた作品もありました。つまり、このコンクールは、「ぼくは、わたしは、こういう機会に、こういうことを学びました」という学びの経験を披露するコンクールであるとも言えます。作文を読みながら、私自身も、多くのことを学ばせていただきました。

式の中で、授与のとき、朗読のときに、スクリーンに「先生」方の写真が写っていました。私も審査の中で、「作文に書かれているのは、こういう先生なのかな?」と想像しながら読んでいたのですが、今日見た写真と、だいたいイメージが一致していました。
 私が審査の際に重視していた点は、「先生の雰囲気が伝わってくるか」「作者の人となりが伝わってくるか」の2点です。そのためには、先生のことをよく観察する必要がありますし、そのときに感じたことを、感じたままに書くことが大切だと思います。
  「人から褒められるような文章を書こう」ということではなくて、ありのままの気持ちを、できるだけ素直に伝える。それがいい文章なのではないかと私は考えています。

 最後に皆さんに、私がお手本にしている文章をご紹介したいと思います。
「僕は君に、以前、ラブレターを書く約束をしましたね」
 筆者は71歳のときにこの文章を書きました。この方は小学生の頃にいじめにあって学校に行けなくなって、文字を学ぶ機会がなかった。64歳で仕事を辞めてから夜間学校に通って、文字が書けるようになりたいと必死に勉強した。そのときに、先ほどの約束をしたのだそうです。

 私もこんな文章が書けるようになりたいと思って、頑張っています。皆さんも、ぜひ、書き続けてください。本日はおめでとうございました。

表彰式の様子 表彰式の様子

第5回子ども作文コンクール:受賞作品と審査員講評

ポスターコンクール・公募展の受賞作品はこちらをご覧ください。

【受賞者一覧】※受賞者名をクリックするとその作文に移動します。

文部科学
大臣賞
小学1~3年生の部 葛飾区立青戸小学校 澤地 柑奈
小学4~6年生の部 鎌ヶ谷市立五本松小学校 渡辺 響己
中学生の部 立命館慶祥中学校 髙畠 孝太朗
理事長賞 小学1~3年生の部 川崎市立下作延小学校 小林 想葉
小学4~6年生の部 呉市立阿賀小学校 切川 翔太
中学生の部 敬愛中学校 安田 悠真
銀賞 小学1~3年生の部 静岡市立清水庵原小学校 鈴木 たま緒
小学4~6年生の部 札幌市立東山小学校 水柿 連太朗
中学生の部 北区立滝野川紅葉中学校 長 由奈
銅賞 小学1~3年生の部 北九州市立西門司小学校 澁谷 楓斗
小学4~6年生の部 サニーサイドインターナショナルスクール 岡田 藍生
中学生の部 川崎市立中野島中学校 木村 守
学研賞 小学1~3年生の部 四日市市立羽津北小学校 川田 七弓
小学4~6年生の部 聖ウルスラ学院英智小・中学校 中村 友馬
中学生の部 東京都立大泉高等学校附属中学校 利根川 快斗
入賞 小学1~3年生の部 松山市立道後小学校 北地 勇輝
小学4~6年生の部 桐朋学園小学校 小林 彩野
小学4~6年生の部 明治学園小学校 能美 にな
中学生の部 群馬大学共同教育学部附属中学校 大井 愛希葉
中学生の部 広尾学園中学校 柴田 彩百合
中学生の部 新宿区立新宿西戸山中学校 藤野 紗都
中学生の部 香川誠陵中学校 山﨑 千春
海外賞 小学1~3年生の部 ブリティッシュ・スクール・ジャカルタ 髙橋 英志郎
小学4~6年生の部 ピッツバーグ日本語補習授業校 原 悠冴
中学生の部 アムステルダム日本語補習授業校 ヴァンフリーケン 潤晴

■ 文部科学大臣賞

小学1~3年生の部

キラキラえ顔のかとう先生
葛飾区立青戸小学校 三年 澤地 柑奈

「先生、ぼくたちのことなめてるでしょ」

おちょうし者のクラスメイトが言った。わたしは、そんなこと言ったら先生はおこるにきまっているとあきれた。音楽のかとう先生はいつもすてきなワンピースをきていて、キラキラとしたスパンコールや石を身につけている上ひんな先生だからだ。けれども、わたしのよそうは外れた。
「キャンディなめてるよ。なめてるよ」
かとう先生は、ユーモアたっぷりで言葉をかえしてくれたのだ。それを聞いたクラスのみんなは、どっとわらい声をあげた。わたしもたくさんわらった。

一年生のとき、わたしははずかしがりやで大きな声で歌えず、音楽はにが手だった。二年生になってからは、やさしいかとう先生のおかげで音楽が大すきになった。

二年生の二学きさいごの日、わたしはきんちょうしていた。ぜん校しゅう会で作文をはっぴょうすることになったからだ。毎日のれん習のおかげではっぴょうはとてもうまくいった。ほっとして下校しようとしたとき、下た箱にお手紙が入っていた。びっくりして中をあけると、かとう先生からのお手紙だった。お手紙の内ようは、先生とわたしだけのひみつだけど、がんばったことがみとめられて心がキラキラしてスキップして帰りたくなった。

二年生の三学き、わたしはメソメソないた。かとう先生がたいしょくすることを知ったからだ。かとう先生がやめてしまうなんて一ミリも思っていなかった。おわかれの日の休み時間に、音楽のじゅぎょうでたくさんれんしゅうした『マイバラード』をなみだをこらえながら歌った。だがしかし、先生はそんなときでもキラキラのえ顔でピアノをひいていた。

わたしもしょうらい、自分だけでなく周りの人もキラキラなえ顔にできる人になりたいと思う。そうなるためにわたしは、どんなときでもニコニコなえ顔でたくさん歌を歌いたい。

【澤地さんの作品に対する講評】

明るく、ユーモアたっぷりで、どんな時でも素敵すてきなキラキラ笑顔のかとう先生の様子が生き生きとえがかれているすばらしい作品です。かとう先生のおかげで音楽が大きになり、自分もキラキラ笑顔でみんなを明るくしたいと思う柑奈さん、とっても素敵ですね。柑奈さんのかとう先生に対するあこがれと、感謝かんしゃの気持ちがキラキラとかがやきをもって伝わってきました。

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小学4~6年生の部

「先生と呼ばないで」と言う先生
鎌ヶ谷市立五本松小学校 六年  渡辺 響己

ぼくは、ヴァイオリンを習っている。だからぼくには、ヴァイオリンの先生がいる。

『先生』と調べると、「学識のある、指導的立場にある人」と書いてあるが、ぼくの先生は、少しちがう。確かに、ぼくの先生は、レッスンのとき、色々なことを教えてくれる。ヴァイオリンの弾き方だけでなく、音楽の歴史、音楽家、自然の音の素晴らしさなど。先生は、レッスン中にヴァイオリンの弦を張り替えたり、駒の位置を調節したり、魂柱を立てたり……と、職人のようでもある。その様子は、まるでヴァイオリンと会話しているようだった。

ぼくには、忘れられないレッスン日がある。レッスン前に公園でお母さんと散歩していたとき、ある出来事でとても傷付いてしまい、レッスンを受けられる気分ではなくなってしまった。お母さんが先生に連絡をすると、先生はこう言った。
「ヴァイオリンは弾かなくていいから、話しにおいで」
と。ヴァイオリンの先生なのに、ヴァイオリンは弾かないでいいと言うのだ。しぶしぶレッスンに行くと、先生は温かい紅茶を入れてくれて、ぼくの話をきいてくれた。そして、こう言ったのだ。
「よかった。響己君が人を傷付けなくてよかった。相手から傷付けられたものは治せるけれど、相手を傷付けてしまったものは、治らないから」
と。ぼくは、この言葉にとても感動した。先生は、人としての生き方も教えてくれたのだ。

先生は、ぼくが初めて出会ったヴァイオリニストであり、音楽について語り合える友人でもあり、人としての心も学ばせてくれる最高の先生だ。先生の様な音楽家を目指し、いつか音楽を通して人によい影響をあたえられる様な人に、ぼくはなりたい。

【渡辺さんの作品に対する講評】

「ヴァイオリニストであり、友人でもあり、人の心も学ばせてくれる」先生とは、どんな人物なのかを具体例と、自分との関係性で、簡潔に述べています。無駄のない文章に、多くの事実が積み上げられています。

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中学生の部

教えない大先生
立命館慶祥中学校 二年 髙畠 孝太朗

僕にとって一番身近な先生は、父だ。勉強はもちろん、スポーツ、音楽、ゲーム、作法や家事まであらゆるジャンルでわかりやすく教えてくれる。特に、帰りが遅くなったときや点数が悪かったときの母への言い訳は完璧に教えてくれる。まさに万能先生なのである。

そんな万能先生に質問したことがある。
「お父さんにとっての一番の先生は誰なの?」。父は即答で「おじいちゃん。教えてはくれなかったけど、たくさんのことを教わったよ」。万能先生にしては、意味不明な回答だったが祖父は、万能先生の先生なのだから、大先生ということになるだろう。

大先生は、今年九十歳になる。耳がすごく遠くて会話は少し苦労する。毎日朝早くから近所の畑で野菜を作り、冬は、一日に何回も除雪をして家の前だけきれいにアスファルトが出ている。小柄だが、たくましい人だ。

大雪が降ったある朝、父からたまには除雪を手伝えと言われ、寒さと眠さでもたもたして外に出ると、既にアスファルトが見えていて、作業はあっさりと終わってしまった。父からは行動が遅いと怒られたが、祖父からは笑顔でありがとうと言われた。僕は、役に立っていないので恥ずかしくなり、もっと早く手伝いを始めれば良かったと反省した。

またある時、祖父と将棋を指していたときのこと。攻めるか守るか随分悩んでいると、祖父が盤を百八十度転換して攻守を逆にした。僕は不思議に思ったが、ふと盤面を見てみると祖父側の攻めで凄くいい手が見つかった。僕は盤を戻して、その攻めを受ける守りの手を指し、最終的に勝つことができた。祖父は対戦相手の思考を僕に考えさせるために盤を逆にしたのだと後から気付いた。この時、僕は万能先生が言っていた「教わった」という意味が理解できた。流石、大先生だ。

何年か前に、大先生の畑から野菜が盗まれたことがあった。毎日手をかけようやく収穫という時で、大先生はとても残念そうにしていたが、これから実るものもあるからと畑に看板を立てていた。注意や警告だと思ったが、そこには直筆で「心が痛みませんか」と書かれていた。僕はその効果に半信半疑だったが、それ以来、ここ何年かは盗まれたことはない。たまたまかもしれないが、窃盗犯も大先生に教わったのではないかと思えてしまう。そう考えて振り返ると、除雪を手伝えなかったのにありがとうと言われた後、心苦しくて反省したことも教わったことなのだと思う。

大先生から教わったことの共通点は、相手のことを思い、考え、行動すること。それは相手に言うより伝わることがあるということ。大先生から、もっともっとたくさんのことを教わって、僕も将来、自分の子供や孫に大切なことを伝えることができたらと思う。

だから大先生、長生きしてくださいね。

【髙畠さんの作品に対する講評】

学校の先生が教えてくれないことを教えてくれる先生というのは、実は人生の中でいちばん大事な先生かもしれません。高畠さんのお父さんも、お爺ちゃんもすばらしい先生ですね。お爺ちゃんが将棋の盤面を逆さにするシーンでは涙が出ました。嬉しいとか悲しいとかいう涙ではありません。偉大なものに触れたときに流れる涙です。さらに、「心が痛みませんか」のシーンには、仏様の笑顔が透けて見えました。高畠さんのお爺ちゃんは私にとっても先生になりました。ご紹介ありがとうございます。

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■ 理事長賞

小学1~3年生の部

林先生へのおん返し
川崎市立下作延小学校 三年 小林 想葉

問題です。<デーデン!> ぼくが大好きな林先生、またの名を里山先生は、人間ではありません。さて一体、何者でしょう? 正かいは~自ぜんの林です!

ぼくの家のすぐ近くには、りょく地とよばれるぞうき林があります。その林は里山ともよばれていて、ぼくは「里山をまもる会」のメンバーなのです。林を元気にきれいにしたり、町の人たちに林のいいところを広める活動をしています。メンバーのほとんどは、ぼくのおばあちゃんぐらいの大人たちで、みんなとてもやさしいです。

春、林の入り口は、まずカワズザクラのピンク色でうつくしくかざられます。その後ソメイヨシノがうすピンクの紙ふぶきみたいにちって、春色のまほうのじゅうたんが広がります。林の畑は、なの花で黄色にそまります。
「おーいみんなー、春がきたよー」
と林が教えてくれているようです。

夏、林先生にもらったプクプクのよう虫がりっぱにカブト虫にかえり、ぼくは大よろこびです。夏の林はこん虫まつりで大にぎわいなので、ぼくは虫とりでいそがしいです。

秋、林先生はカラフルにへんしんして、まるで毎日が赤、黄、茶とファッションショーです。ぼくは会のメンバーとかきあつめた落ち葉の山にダイブして遊ぶのが大好きです。

冬、雪がふったら、ぼくはまず、犬をつれて林先生の所へ行きます。雪やしも柱も、だれにもふまれていなくてさい高の遊び場です。

林はおいしい場所でもあります。フキノトウにサクランボ、ビワの実にシイタケ、と自ぜんのめぐみをプレゼントしてくれます。ざっ草とりでは外来しゅ、ざい来しゅについても教えてくれました。一年を通して、ぼくは林先生にたく山の事を学びます。林先生ありがとう! いつかぼくは、おん返しするからね。

【小林さんの作品に対する講評】

「先生」を人間とせまくとらえず、自分に学びや生きるための知恵をさずけてくれるもの――身近みじか緑地りょくち――ととらえました。自分が何を学ばせてもらえているのかを具体的ぐたいてきにあげながら、分かりやすく書けています。「まもる会」での人とのかかわりもいいですね。

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小学4~6年生の部

親子三代の祭り男
呉市立阿賀小学校 四年 切川 翔太

ぼくの住む呉市阿賀地区では、毎年秋分の日に合わせて神田神社の太こ祭りがもよおされる。コロナのえいきょうを受け、二年連続で中止となっていたが、ようやく去年の九月、三年ぶりに開さいされた。待ちに待ったひさびさのふっ活に、三年分の想いを乗せて太こをたたいて手のマメがつぶれたのを思い出す

祭りの日になると、地いきの人たちが笛太この音と共に自たく前を通かして行くが、よう少期のぼくはこの集だんがきらいだった。正しくは、おそろしかった。その原いんは、『ヤブ』というオニのお面を付けたおじさんがおそって来るからだ。今考えると、取って食べられるわけでもないのだが、つかまると一かんの終わりくらいに思っていたのだろう。ヤブにだっこされる三才の自分の顔を、改めて写真で見ると笑えてしまう。

自分にはえんのないイベントだと思っていたこの祭りに対する想いを、真反対に変えてくれたのが、そ父と父だ。

最初は、サランラップを使い切った後に残ったシンを二本用意して、太こをたたく真ね事をしていたが、父たちのように上手く『ハヤシ』をたたけない。くやしくて何度も何度もあきらめようとしたけれど、ぼくの後ろからも一しょに手をそえてリズムのとり方や手の回し方、足の上げ方など、二人は一生けん命にじっくりと教えてくれた。自治会館で夜にやっている練習会にも連れて行ってくれ、たくさん数を重ねていき、初めて完ぺきにたたけた時、
「どうしたん翔太、いつになく弱音をはかずにがんばったじゃん」
と、父がからかいながら言う側で、
「翔太のおかげで、ひさしぶりに親子三代で祭りに出られるわい」
と、そ父は新しい親子三代の結成を目を細めてよろこんでくれた。

父から聞いた話では、今は亡きそうそ父が八十八才の年まで、旧親子三代で祭りに参加していたのだと言う。

「お父さんもな、ちょうど翔太と同じ五才のころから祭りに出ていて、周りの人から、切川の親子はうらやましいのぉ、といわれてたんで」
と、思い出すように話してくれた父の表じょうもまた、そ父と同じようにうれしそうであった。

二人の先生から、阿賀の太こ祭りの伝とうを引きついでもらった今のぼくは、『祭り男の血がさわぐ』と母が表げんするように、心をふるわす笛太この音がきこえてくると、むねの辺りがじわっと熱くなってくる。

この熱い想いと伝とうのバトンを、自分の子ども、さらには孫の代へとつないでいきたい。また、新たな親子三代の結成に向けて。

【切川さんの作品に対する講評】

「親子三代の祭り男」タイトルから力強い祭りの様子が伝わってきます。2年連続で中止になっていた神田神社のお祭り。それがやっと復活したことへの喜びが文章からひしひしと伝わってきます。最初はえんのないお祭りと思っていた翔太くんがおじいさんとお父さんの熱意で今では「祭り男の血がさわぐ」というようになっています。これこそおじいさんお父さんという先生の力ですよね。すばらしい先生の教えをやがては翔太くんがひきついでいくのでしょう。未来にわたって楽しみです。

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中学生の部

先生と特別な部屋
敬愛中学校 二年 安田 悠真

僕は、大好きな先生に会える、特別な部屋を持っている。その名も、「数学大好きのお部屋」。この部屋のことは、みんなに秘密にしているわけでも、暗号を言わなければ入れないわけでもないけれど、入ってくる人はほとんどいない。それに、入室にはちょっとしたコツがいる。それは、「数学を楽しむ気持ちを持っていること」だ。

僕は数学が好きだ。父が数学の教師で、自宅にたくさんの参考書があることも手伝って、僕は小さな頃からたくさんの数字に触れてきた。中学生になってからは、ますます数学のとりこになった。そんなある日、父の同僚の足立先生が、僕を「数学大好きのお部屋」に誘ってくださった。でもこの部屋は、学校のどこを探しても見つからない。足立先生がウェブ上に作ってくださったものだ。ウェブ上に部屋があるので、インターネットの環境さえあれば、メンバーはいつでも、どこにいても、部屋に入ることができる。現在のメンバーは、僕の尊敬する先輩と僕、足立先生の三人だ。僕達は、先生が送ってくださる問題に取り組みながら、数学の面白さを味わっている。目の前に先生や先輩がいなくても、同じ問題を解き、その場で意見を交換し合うことができる。これは、僕にとって初めての喜びだった。僕は今まで、考える作業は孤独で苦しいものだと思っていた。でも、その意識を先生が大きく変えてくださった。頼れる先生や仲間がいることが、どれほど心強いことか。僕は日々、この有難さを実感している。

先日送られてきた問題には、「エレガントに解いてほしい」と先生からのコメントが添えられていて、僕を心底驚かせた。エレガントな数学って何だろう。僕は戸惑いながら、恐る恐る自分なりの解き方を送信した。すると、すぐに先生からコメントが帰ってきた。僕の考え方は回り道をしているので、エレガント、つまり、すっきりと美しい、とは言えないようだ。先生のヒントを元に、また解法を送る。さらに訂正が入る。そうしているうちに、先生が僕のそばについて、ゴールまでもう少しだよ、と一緒に走ってくださっているような気持ちになった。僕は一人じゃない。問題を解きながら、僕の心は温かかった。考える道筋が、楽しくて楽しくて仕方なかった。やっと納得いく答えまでたどり着いた時、先生から親指を上げた「グッド」の絵文字が送られてきた。僕は思わず喜びの声を上げた。頭の奥で、先生や先輩がハイタッチをしてくれる光景が思い浮かんで、頑張ってよかったな、と喜びを噛みしめた。

僕は今、難しい問題に出会うと、以前よりもさらにワクワクするようになった。たとえ解けなくてもきっと楽しいぞ、と、期待に胸を膨らませながら問題に向き合うことができる。これもみんな、足立先生のおかげだ。先生は僕に、数学の面白さだけでなく、仲間と力を合わせてゴールを目指すことの心強さや、温かさを教えてくださった。僕は足立先生に、心から感謝している。さあ、今日の「数学大好きのお部屋」では、どんな問題が待っているだろう。扉の向こうで、先生が伴走に向けてウォーミングアップしてくださっているのを感じて、僕の胸は高鳴っている。

【安田さんの作品に対する講評】

「みなさんは数学は好きですか?」こう聞かれたら何人の人が「大好きです」と答えられるでしょう。悠真くんは「大好き」をこえて数学の問題が届くのを胸をわくわくさせて待っているのです。なんと幸せなのでしょう。それも「数学大好きのお部屋」の向こうで足立先生が問題を考えているからですね。難しい問題になればなるほど楽しみな悠真くん、きっと足立先生も問題を作るのが楽しみになっていると思います。すばらしいきずなですね。

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■ 銀賞

小学1~3年生の部

まみ先生、げん気かな
静岡市立清水庵原小学校 二年 鈴木 たま緒

まみ先生、わたしのこと、わすれていないかな。

まみ先生、げん気かな。

まみ先生は、年中のときのたんにんの先生です。いつも、にっこりのおかおで、カラカラとあかるいよいこえの先生でした。

わたしは、まい日、子どもえんにつくと、まず先生をさがしました。見つけると、こころがほわあと、赤くなって、先生のところへはしって行きました。先生は、ふんわり、だっこしてくれました。もうひとりおかあさんがいるみたいな気分でした。

みんなで、たかべ子どもえんのえんかをうたうとき、先生は、ピアノをひいてくれました。ときどきまちがうこともありました。そうすると、
「あっ、みんな、ごめんねぇ」
と言って、ちょっとふりかえります。先生は、エヘヘ、とわらっていました。けれど、わたしは、先生のこころの中は、「しっぱいしたー。もういやだー」と、あばれていたと思います。おとなになると、手足がのびて、せも高くなります。それといっしょに、こころも大きくなります。だから、本とうにないたりさけんだりしなくても大じょうぶになるのかな、と思います。

わたしは、さん数で、もんだいをよく読んでもわからないときや、なくしたものがすぐに見つからないとき、大きなこえでないてしまいます。なみだがぜんぜんとまりません。わたしのこころは、まだ小さいです。まみ先生のこころは、大きいのです。

わたしは、わたしの気もちがよいときに、まみ先生のことを思い出しています。なみだが出そうなときにも、まみ先生の「エヘヘのおかお」をあたまの中にだすと、よいかもしれません。

まみ先生、また会いたいよ。

まみ先生、げん気かな。

【鈴木さんの作品に対する講評】

「こころがほわあと、赤くなって」や「ふんわり、だっこ」など、鈴木さんがかんじていることが、そのまま伝わってくる表現ひょうげんがたくさんでてきて素敵です。言葉にはしにくいひとの気持きもちを、上手じょうずに言葉にのせています。自分の気持ちをよく観察かんさつできるから、ピアノを失敗しっぱいしたまみ先生がこころの中では「しっぱいしたー。もういやだー」とあばれていることをみぬけましたね。イヤなことがあったとき、感情かんじょうおもてに出てしまうのは、こころが小さいからなんですね。私もまみ先生を見習みならいます。

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小学4~6年生の部

滝野沢先生の「大丈夫」
札幌市立東山小学校 五年 水柿 連太朗

将棋盤に集中して次の一手を考えていると、いすから落ちることがあった。ズルっと体がずれるくらいなら、すぐに体勢を整えられる。しかし、運が悪いと、いすが後ろに引っくり返ってしまって、頭をゆかに打ちつける。将棋会館におむかえに来る母は、滝野沢先生からこうしたことを聞く度に、大げさに驚いて謝っていた。
「男の子は、こんなものですよ。大丈夫」
と先生が説明してくれるので、ぼくは母から叱られなくて済んでいる。

ぼくは、小学一年生のころ将棋会館に通い始めた。ここに来ると、子供でもおじいさんでも、みんなが仲間だ。公園では、サッカーが下手だと仲間に入れてもらえないことがあるけれど、将棋会館ではそんな経験はしたことがない。一番安心して過ごせる場所だ。ここにいる先生方は、ぼくを理解してくれている。ぼくを叱ることはあっても、ぼくをきらうことはない。いすから落ちたり、対局中に取り乱したら、厳しく注意はしてくるけれど、最後には「大丈夫」と言って笑っている。

去年の秋、山形県天童市で開催された将棋の全国大会に出場した。良い成績を残したいあまり、開会式直前でお腹がいたくなってきた。急いで先生に電話をして、いつもの「大丈夫」を言ってもらうと、いたみはスーッと消えて、集中力が戻ってきた。先生の言葉は、まるでお守りのような効果があった。

先月、全国大会の北海道代表を決める大事な大会があった。その時、学校の悩み事のせいで、集中して将棋ができなくなっていた。アトピーが悪化してしまい、いつの間にか服には血がついていた。大会前日の夕方、先生は外が暗くなるまではげましてくれた。
「大丈夫。君ならできるよ」
と何度も言ってくれた。そして翌日、ぼくは全勝優勝して、北海道代表になった。先生が導いてくれた勝利だった。

ぼくは、記憶力には自信がある。興味があることだと、一度聞いたら忘れないし、速読した歴史小説の内容を全て覚えることができるけれど、できないこともたくさんある。校則を守らないので、何度も注意された。例えば、友達を「名字プラスさん」で呼ぶことや、暑くてもネクタイをすること、机の中をきれいにしておくことなどだ。ぼくにはできなかった。だから今の学校に転入することにした。

滝野沢先生は、ぼくの苦手な所を全て知っていても、「大丈夫」と言ってくれる。どんな時も応援してくれる。だからぼくは先生が好きだ。先生、ありがとう。

【水柿さんの作品に対する講評】

自分のよいところ、足りないところをよく見つめています。つらい体験、緊張、先生の励ましと勝利、連太朗さんのこれまでの生きざまが短く切れのある文体でリズムよく綴られています。そして、滝野沢先生に対する想いがストレートに表現されています。ここぞというとき、電話をかけてきてくれて「大丈夫」といってくれる先生に見守られ、励まされてきた連太朗さん、これからも将棋をがんばってください。

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中学生の部

祖母の天声人語書き写しノート
北区立滝野川紅葉中学校 三年 長 由奈

「客室乗務員は、機内で否定語の対応をすべからず、と教育を受けていた。だが、時代は変わったようだ。今のご時世、簡潔なサービスは悪くないが、木で鼻をくくるのとは違う。取り違えないよう願いたい」。これは、二〇一二年六月九日土曜日の天声人語の内容である。祖母の天声人語書き写しノートの一ページ目だ。祖母は十二年間、天声人語の書き写しを続けている。そのきっかけは、祖父のタクシーの乗務時間が、夜に出発し、朝に帰るという時間帯に変わったことだ。今までは、朝、新聞を丁寧に読んでから出かけるという生活だったのだが、新聞を読む時間がなくなってしまった。その日が、二〇一二年六月九日なのだ。

祖母が、天声人語を書き写して、祖父が帰宅したときに、その内容を話す。そんな生活が始まった。

祖父は、タクシーに乗ったお客さんと話したことや、同僚との話などを祖母日話すようになった。祖母に、祖父から教わったことの中で、一番心に残っていることはなにか、と聞いてみた。それは、乗ってきたお客さんがずっと泣いていたという話だった。祖父が「どうしましたか」と聞くと、「息子が今日亡くなりました」と言われたそうだ。祖父はもらい泣きをし、涙がとまらなくなったという。この話は、祖母に話したあとも、家族の中でよく話題になった。

祖父は、すでに運転手をやめたが、二〇二二年十二月十八日の天声人語が、一番印象に残っているという。「アフガニスタンで三年前に殺された医師の中村哲さんは、武器を手にした人間の弱さと、狂気を知りつくした人だった。現地で人道支援をしながら、幾度も戦闘に巻き込まれた。『平和には戦争以上の努力と忍耐が必要なんです』そんな中村さんの言葉も、これでは空しく響いてしまう」。これを祖母から聞いて、祖父は、戦後間もないころの貧しさを思い出したという。戦争からは何も生まれない。

祖父母は、お互いに教え合う人だ。お互いが先生なのだ。そして、そんな二人の孫である私にとって、二人は先生である。これから先も、そんな祖父母から、学び続けていくつもりである。

【長さんの作品に対する講評】

学び続けることの大切さ――とよく言われますが、長さんのおばあさんは、天声人語を書き写すことで、おじいさんとの対話を豊かにしています。お二人の時間が知的でその生き方そのものが「先生」なのです。書き出しからお二人の人物像、そして自分にとっての貴重な話題、どれをとっても選び方が的確で文章に無駄がありません。これからもお二人を人生の師として学び続けてください。

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■ 銅賞

小学1~3年生の部

えんちょう先生のことば
北九州市立西門司小学校 二年 澁谷 楓斗

「むずかしいことは、たのしいことです」
これは、ようちえんのそつえんしきのときに、えんちょう先生がぼくたちにおくってくれたことばです。さいしょにこのことばを聞いたときは、
「本とうかな。むずかしいことは大へんなことじゃないのかな」
と思いました。

小学一年生のさいごのじゅぎょうさんかんで、「思い出はっぴょう会」をすることになりました。みんなそれぞれ、とくいなとびばこや、なわとびをひろうします。ぼくは、とびばこ四だんか、あやとびをやろうと思ったけれど、あたまの中にふわっと
「むずかしいことは、たのしいことです」
というえんちょう先生のこえが聞こえてきました。
「むずかしいことがたのしいことなら、まだできたことのないこままわしにチャレンジしてみようかな」
ぼくはその日から、こままわしのれんしゅうをはじめました。

さいしょはひもをまきつけるのがむずかしくて、と中でぐちゃぐちゃにしたくなったこともありました。でも、休み時間にもまい日れんしゅうをつづけて、すこしずつできるようになりました。じゅぎょうさんかんのまえには一分二十九びょうもまわしつづけられるようになって、ともだちから
「こまめい人だ」
と言われるようになりました。はっぴょう会でも大せいこうして、たくさんはく手をもらいました。ぼくはうれしくて、こまみたいにくるくるまわりたい気分になりました。

そのとき、えんちょう先生のことばは本とうだな、と思いました。むずかしいことは大へんだし、つらいこともたくさんあります。でも、それができるようになったとき、つらかったことをわすれるくらいたのしくてしあわせな気もちになれます。

これからも、むずかしいことが目のまえにあらわれたら、えんちょう先生のことばを思い出して、チャレンジしてみようと思いました。

【澁谷さんの作品に対する講評】

「むずかしいことは、たのしいことです」というえんちょう先生のことばの意味いみを、実際じっさい体験たいけんによって理解りかいした、その気づきの様子ようすがくわしく、わかりやすく書かれています。ともだちから「こまめい人だ」とよばれるようになったときのうれしかった気持ちを「こまみたいにくるくるまわりたい気分になりました」と、とてもかわいらしく表現ひょうげんしています。

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小学4~6年生の部

立花師のおじいちゃん
サニーサイドインターナショナルスクール 五年 岡田 藍生

私の先生は、天国にいるおじいちゃんです。おじいちゃんは、お花を立てる先生でした。室町時代に確立した立花(たてばな)の研究者でもありました。立花とは、古来から神仏へ供えられていたお花のことです。

私の家には、生まれた時から古い花瓶や、立花についての本が何冊もありました。そして、小さい頃からお母さんが絵本代わりにお花の本を読んでくれたり、お庭や道ばたに咲いてる草花を生けることは当たり前でした。

実は、おじいちゃんに会ったことがありません。私が生まれる前に亡くなったからです。おじいちゃんのことを詳しく知ったのは、二年前におばあちゃんが亡くなってからです。京都の家から、おじいちゃんに関する本や資料、映像などが、色々送られてきました。何と、国宝や重要文化財の建物でお花を立てるプロジェクトに参加していたり、国立能楽堂で立花師の役としてお能に出演していたことを初めて知り、
“おじいちゃんは、とってもすごい人だったんだ‼”
と、びっくりしました。そこから私は、もっと立花に興味を持つようになり、今ではおじいちゃんを思い浮かべて花を生けるようになりました。

おじいちゃんの立てる花は、言葉にならないほどきれいです。私はおじいちゃんの花に憧がれています。だから、もっと上手になりたいです。でも、困ったことがあります。それは、おじいちゃんはもういないということです。私が生けた花が合っているか間違っているか評価がもらえないし、分からないことを質問することもできません。でも、時々心の中で、
「私の生けた花はどうですか?」
と聞くと、おじいちゃんはいつも、
「上手だね」
と言ってほめてくれるので、お花を楽しんで続けられています。

家でお花を生ける時は、お花屋さんに行って買うんじゃなくて、お庭にある花や、ご近所のおばあちゃんのお花を摘んで生けます。お庭に出ると、お花について色いろ知れます。例えば、
“今年のスイセンは背が低いな”
とか、
“レモンの木にアゲハ蝶が卵を産んだぞ”
とか。私は生けた花を一番におじいちゃんの所にかざります。お線香をあげて、お話しします。花を生けるということは、私にとって心も体もリフレッシュでき、同時に楽しく豊かな時間でもあります。

私は将来、立花師になって、おじいちゃんがつないでくれた、立花の文化を色々な人に伝えていきたいです。おじいちゃん、これからもいっぱい教えてね。

【岡田さんの作品に対する講評】

岡田さん自身、おじいちゃんに直接会ったことがないのに、この文章からはおじいちゃんの厳かな存在やおじいちゃんが生けたお花のきっと端正な美しさがにじみ出ています。不思議です。岡田さんが語りかけると「上手だね」とこたえてくれるように、きっとおじいちゃんの魂はこの文章にも宿っているのだと感じました。おじいちゃんや岡田さん自身が生けた花があるお部屋の波動が伝わってくるすばらしい文章でした。

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中学生の部

大切な時間
川崎市立中野島中学校 二年 木村 守

ペルテスが治って、出会ったスポーツ・ボウリング。ぼくの先生はプロボウラーの今泉プロ。ジュニアレッスンで、毎週土曜日にボウリングを教えてくれる。

ペルテスという病気にかかり、長い入院と装具治療をしていたぼくは、スポーツをする事に苦手意識があった。筋肉のない、小柄で弱々しい姿だった。

今泉プロは、嫌な顔をせずぼくを受け入れてくれた。何も出来ない。何も楽しめない人生だったぼくには、今泉プロの声かけが嬉しくてたまらなかった。
「守、手は最後まで振り抜いて」
「守、上手くなったぞ」

毎週土曜日、レッスンに行くのが楽しみになった。正直、中学校は行きたくない。ペルテスの治療で、勉強もスポーツも遅れてしまった。ついていけない。体育でサッカーやバスケットをするのが怖い。他人がぶつかってきて、ペルテスだった足の骨に何かあったらと心配だった。でも、学校はさぼらず行った。テストの点が悪くても、毎日行った。
「指が痛くても、すぐにやめない。投げ方を考えれば、痛くない投げ方が出来るようになる」と、今泉プロが出会った頃教えてくれた。嫌だから学校に行かないのは、プロの教えに反するとぼくは思った。

ボウリングと出会って、ちょうど一年。自分でもビックリするほど、体も大きくなり、筋肉もついた。学校へもさぼらずに行き、去年ほどつらくなくなった。ペルテスが全てだったぼくの生活は終わり、ボウリングが生活の中心になった。今泉プロが出すストライクは、ピンがキレイにはじけ飛んで力強い。見ているぼくはスカッとする。学校でのストレスもはじけ飛ぶ。不登校にならないための大切な時間。

ぼくだってストライクは出るけど、今泉プロみたいにはじけ飛ぶのは少ない。まだ、フォームが安定しない。今泉プロが見ている時は、ピリッとして教わったフォームを考えながら投げる。今泉プロが他の子を教えに行ってしまうとフッと気がゆるみ、次の投球はガター。リラックスと気のゆるみは違うと気が付いた。緊張は適度に必要だ。

今泉プロは、ぼくの気のゆるみを見逃さない。ガターを出して「ヤバイ」と思っていると必ず目が合う。他の子を教えていても周りに目を光らせている。「守、どうした」と声をかけてくれて、肩をポンと叩く。気持ちがキュッとして、次の投球はストライク。今泉マジックだ。一瞬でぼくの気持ちを切り替える。

今年は、大会に挑戦する。ボウリング歴一年。大会では、ヒヨッ子だ。きっと負け試合。でも、負けてたまるか。自分に負けない。ガターを出さず、ベストスコアを出してやる。

大会まで、あと一ヶ月。会場に今泉プロはいない。今泉マジックも起きない。自分で、気持ちをなんとかするしかない。今泉プロに教えてもらった技で、守マジック起こしてみせるよ。

【木村さんの作品に対する講評】

プロとしての心構えや、つらいことから逃げない前向きな心を学んだ今泉プロとの「大切な時間」が、守さんの生きる力となっていったということがよく伝わってきました。今泉プロがいない大会では、一人で勝負に向かわなければならないため、「負けてたまるか」「自分に負けない」と自分自身を励まし、「守マジック起こしてみせるよ」で締めくくっている文章は、心地よい余韻を残しています。

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■ 学研賞

小学1~3年生の部

松本プリンセスは魔法使い
四日市市立羽津北小学校 三年 川田 七弓

「今から物語を話します。どんなお話がいいですか」
私がようち園の時、よく部屋に遊びにきてくれたのはふく園長の松本先生でした。「こんな話がいい」とだれかが言うと、先生はただの紙を取り出して、まるで本のようにリクエストされた物語を読み始めます。面白い話はワクワクするし、変な話はニヤニヤするし、こわい話はドキドキするので、私は先生の物語が大すきです。でも、途中で話が終わってしまうと本ではないので続きが読めません。今でも気になっている話がいくつかあります。

私が紙でくつを作っていると、松本先生が目を丸くしてやってきて
「これはシンデレラのくつね! とてもすてきですわ」
とプリンセス語で言っておじぎをしてくれました。すると、紙のくつがガラスのくつに、スモックがドレスに見え、二人ともプリンセスに変身しました。
「ありがとうございますわ」
と私もおじぎを返しました。そして、先生は次々と女の子を変身させてみんなでプリンセスごっこをしました。

私は、先生は魔法が使えると思っています。紙を本やガラスのくつにしたり、スモックをドレスにしたり、みんなをプリンセスに変身させたりできるからです。その魔法は、とてもおもしろくて楽しいので、みんなをえがおにすることができます。

私も魔法を使ってみたいです。でも、どうやったら使えるかよく分かりません。私は松本先生とお話すると元気になるので、きっとだれかに元気をあげようとする時に魔法が使えるのかなと思っています。私も松本先生のようなだれかを元気にする魔法使いになりたいです。

【川田さんの作品に対する講評】

松本先生が目の前にいるかのように感じられるすばらしい文章ぶんしょうです。実際じっさいに松本先生が目の前にいるときに川田さんが感じたことを素直すなおに言葉にできているからだと思います。プリンセス語で語りかけた松本先生に、とっさにプリンセス語で応答おうとうした川田さんもなかなかやりますね。川田さんのこたえがあったからこそ、クラス中が魔法にかかったのだと思います。川田さんも魔法使いなんじゃないでしょうか。

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小学4~6年生の部

言葉の薬
聖ウルスラ学院英智小・中学校 四年 中村 友馬

「病気にならないようにがんばろうね」
そう言いながら、先生はいつものニッコリ笑顔で、制服のシャツをまくり上げたうでに、予防接種のための注射の針をさしてくる。病気でもないのに注射をすることに納得がいかないが、それがぼくたちを守るために大切だということは、言われなくても分かっている。けれど本当は、すぐ後ろで大泣きしている赤ちゃんの声がまるでぼくの心の音かと思うくらい、注射が大きらいだ。そんな気持ちが全く伝わらないとしか思えない、病院のりょう先生は、正直に言うと会いたくない先生だ。けれどそんな先生からもらった、とっておきの薬を、あの日から肌身はなさず持ち歩いている。

小学一年生の冬休みが明けたころから、ぼくは学校に行くことが苦しかった時期がある。担任の先生に理由を聞かれても、何がぼくを苦しめるのかを自分の言葉で伝えられなくて思っていることをどんどん人に言うことができなくなった。夜になると熱が出たり、ご飯を食べても吐いたりしてしまい、学校に行くことができない日が続いて、お母さんはりょう先生の病院に連れて行ってくれた。いつもやさしい顔をしている先生なのに、その日は全然笑っていなかったのを今でもはっきり覚えている。先生はすぐに点滴をしながら、横に座って話を聞いてくれた。本当は学校に行きたいのに、不安で行けない気持ちを先生に伝えた。その日の先生は、いつもとちがって苦くてまずい薬ではなく、別のものをくれた。それは、
「先生はいつでもここで待っているから、苦しいと思ったらすぐにもどっておいで」
という言葉の薬だった。その言葉は、前に進むパワーを注射してくれたようだった。その日、病院から真っ直ぐ学校へ向かった。

あの日からずっと先生がくれた言葉の薬は心の中にあって、お守りとして大切に持ち歩いている。ぼくたちは言葉を簡単に使うことが出来る。けれど、使い方をまちがうと友達を傷つけたり、苦しめたりもできてしまう。だからこそぼくは、りょう先生のようにやさしい言葉を使えるようになりたい。

【中村さんの作品に対する講評】

病院のりょう先生は「先生はいつでもここで待っているから、苦しいと思ったらすぐにもどっておいで」と言ってくれた。この言葉は友馬くんにとって「言葉の薬」。苦しいとき悲しいときに思い出して元気になれる魔法の薬なのですね。“言葉の使い方をまちがうと友達を傷つけたり、苦しめたりもできてしまう”だから、友馬くんは、りょう先生のように人を元気づける「言葉の薬」のような、やさしい言葉を使えるようになりたいと思っているのですね。言葉について深く考えたすばらしい作文です。

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中学生の部

三分間の出会いから生まれたきずな
東京都立大泉高等学校附属中学校 一年 利根川 快斗

私には、人生の師と仰ぐ人がいる。その人は、JR両毛線の元運転士さんだ。小学一年生の頃、父の転勤で暮らしていた群馬県にある高崎駅のホームで、ぼくは出発前の運転士さん二人が談笑しているところに居合わせた。その直前に見かけた珍しい車両について、緊張しながら片方の運転士さんに質問してみたところ、その人は幼いぼくのつたない質問に丁ねいに答えてくれた後、ぼくの名前をたずね、運転台の下からハガキと筆を取り出して、サラサラと文字を書いてぼくに手渡してくれた。そこには達筆で「夢」という大きな文字と一緒に、ぼくの名前が書かれてあった。おどろいたのとうれしかったのでぼくは言葉が出なかった。運転士さんは「これでぼくと君は友達だ」とにっこり笑ってあく手してくれたが、発車時刻が迫っていたのでそれ以上の言葉は交わせずに、運転士さんと電車は行ってしまった。このたった二、三分の出会いのあと、なんとかあの運転士さんの名前を知りたいと母が手を尽くしてくれてどうにか糸がつながり、お礼の手紙を届けることができた。こうして、ぼくと運転士さんとの文通ははじまった。

ぼくの誕生日や季節の節目節目で手描きのイラストとともに達筆なハガキが届く。そのたびにぼくも手紙を書いて絵といっしょに送る。こうして、約七年間でいただいたハガキは三十枚以上にのぼり、全て大切に保管している。なかでも印象に残っているのは小学六年生のときのお正月にいただいたはがきだ。そのはがきには「やっておいてよかった」と「やっておけばよかった」では二文字の違いだが、その差はどこまでも大きいと書かれていた。そして、このメッセージをはげみに中学生になるまでの準備期間を有効に使おうと思った。

このほかにも、七年間で三十通ほどのやりとりに支えられたことも多かった。文通自体人生初めてで、全く違う世代の人と離れていてもつながることができるうれしさ、喜びを知った。特に近ごろの三年間はコロナ禍で祖父や祖母にさえ会うことが難しかった。そんな中文通で人と繋がれるということがよけいにありがたかった。そして、二、三分のたった一度の出会いでもかけがえのないものになると知った。今でも辛いとき、壁にぶつかったときにはもらったはがき集をめくる。力強い筆文字をたどると、不思議と元気が湧いてくるのだ。「出発進行!」という良く通る声と笑顔が、たくさんのはがきとともにぼくの力になっている。

【利根川さんの作品に対する講評】

3万日とも言われる長い人生の中でのたった3分間が、人生に大きな影響を与えることがある。まず内容的に、そんなことが学べるすばらしい文章でした。たった3分間で利根川さんが感じた、その運転手さんの気配が、筆致に表れています。これは文章の技術でできることではありません。こころから真っ直ぐに書いている文章だからできることです。この書き方を忘れないでください。

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■ 入賞

小学1~3年生の部

ぼくのじまんのおねえちゃん先生
松山市立道後小学校 二年 北地 勇輝

去年、一年生になったばかりのぼくは、学校のことがなにもわからなかった。ふあんでいっぱいだった。学校の先生には、はずかしくて聞けないからいえへかえると、ねえねにしつもんしていた。ちゃんとおしえてくれるけれど、いつもえらそうだったねえね。ぼくはイライラしてくやしい気もちになった。だから、いえではいつも二人でケンカをしていた。

でも、学校でねえねにあえるとうれしい気もちになる。ほっとする。そして、ちょっぴりはずかしい。ふしぎだな。学校にいるときのねえねはすごい。ぼくの友だちの名まえをおぼえて、いっしょにあそんでくれる。うんどうじょうでころんだとき、じぶんもあそんでいたのにすぐそばにきて、ケガのちりょうをしてくれる。まるで学校の先生みたいだ。ぼくの友だちは、
「ゆうきくんのおねえちゃんだ」
と、ぼくより先にねえねを見つけてまわりにあつまる。ぼくはとてもうれしくなる。
「ぼくのおねえちゃん、すごいだろう」
と、じまんしたくなる。はらが立って、ケンカするときもあるけれど、ねえねはぼくの大すきなおねえちゃん先生だ。

ぼくは二年生になった。ぼくより小さい一年生が入学してきた。朝、校もんでおかあさんとはなれたくなくて、ないている子がいる。きっと、ふあんなんだろうな。ぼくは、その子の気もちがよくわかる。
「だいじょうぶだよ」
と、声をかけたくなる。ゆう気を出して声をかけてみよう。おねえちゃん先生のように。ぼくも一年生のみんなから、たよりにされるおにいちゃん先生になりたい。

【北地さんの作品に対する講評】

いえでは、いつもえらそうでイライラするねえね。そのおねえさんが学校ではどうしているのか、どんな様子ようすであるかをよく見て、素直すなお表現ひょうげんしています。なっとくできるれいをあげています。きっとねえねのようなおにいちゃん先生になれたことでしょう。

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小学4~6年生の部

ポッター先生また今度!
桐朋学園小学校 五年 小林 彩野

「うわーまるで天国!」
北アルプスの白馬岳に一家五人で登ることは、小さいころから登山をしているお母さんのゆめでした。長い長い急な大雪けいを、お父さんがアイゼンをつけてくれた山ぐつで登りきって、私は心の底からほっとしていました。雪もなくなり、お花がたく山さいた岩場が広がっていて、とても楽しい気分になりました。
「きれい! このお花の名前って何かな?」
見たことがない花を指さして、私はお母さんに聞きました。するとお母さんの横から、知らないおじさんが顔を出して言いました。
「これはね、ミヤマキンバイだよ」
め鏡をかけたそのおじさんは、ニコニコしながらお花について説明してくれました。
「これはクルマユリ、こっちはチングルマだよ。チングルマはね、今は白い花だけれど、そのうちにクルクルのわた毛になるんだよ」
め鏡おじさんは、これまで何度も白馬岳に登ったそうで、高山植物について教えてくれる特別な先生みたいでした。私達は一緒に登りながら、すぐに仲良くなりました。
「おじさんのこと、何てよんだらいい?」
私がそう質問すると、
「じゃあ、おじさんにあだ名をつけてよ」
笑ってそう言ってくれたので、私は弟と妹と相談して、大好きな本の主人公から名前をもらって、ポッターとよぶことにしました。ポッター先生とおしゃべりしながら登ると、けわしい山道でもつかれが和らぎました。私が不思議だなぁ~と言うと、
「ぼくは、魔法が使えるからね」
と、ポッター先生が自信たっぷりに答えました。しかもアンデルセン王国の王様だと言うのです。不思議でなぞだらけの先生です。

高山植物がいっぱいの岩場が終わるころ、ポツポツと雨がふってきました。
「急いでレインスーツを出して!」
お父さんにそう言われて着た後、あっと言う間に雨はザーザーぶりに変わりました。
「もう無理!」
そう言いながら、がむしゃらに登って行くと、みんなでびしょぬれのでれんでれんになりましたが、なんとか山小屋に着きました。

次の朝、ご来光をおがんでから登頂し、ポッター先生と長い時間歩いて下山しました。
「今度、うちの妖精に手紙を書かせるよ」
と言うので、ポッター先生に住所を教えて別れました。そして、家に帰るとハムやベーコンがいっぱいとどきました。箱にはアンデルセンと書いてあり、手紙にはポッターおばさんより(妖精の正体)と書いてありました。先生が作ったハムだとわかり、家族みんなでおどろきました。ポッター先生は、高山植物だけでなく、山での出会いの楽しさについて教えてくれました。ポッター先生、ありがとう! また今度、山で会えたらいいな。

【小林さんの作品に対する講評】

白馬岳への家族登山で出会ったおじさん。彩野さんたちは山のことならなんでも知っているおじさんに“ポッター先生”とあだ名をつけてすっかり親しくなりました。ポッター先生と家族のあたたかな交流がいきいきと語られている作文です。“ポツポツと雨がふってき”“あっと言う間に雨はザーザーぶりに変わり”“みんなでびしょぬれのでれんでれんになり”など、オノマトペ(擬態語)を巧みにたたみかける表現が心地よいリズムを打ち、読者の心に響いてきます。

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つなぐ思い つむぐ思い出
明治学園小学校 四年 能美 にな

「下司先生は体調不良でしばらくお休みです」

三時間目の移動教室の授業から帰ってきたときのことだ。とつ然の知らせに、教室中がざわつく。朝は元気だったのに急にどうしたのだろう。先生は心ぞうが悪いと聞いたことがある。祖父が心きんこうそくで入院したことを思い出し、私はさらに不安になった。

そんな時、千羽づるのことを知った。平和や健康を願う気持ちをおりこむのがすてきだと思った私は、さっそくおこづかいをにぎりしめて折り紙を買いに行った。もちろん下司先生に千羽づるを作るためだ。千羽の道も一羽から。でも一人で何羽か折ったところでようやく気付く。一人じゃ無理だ。千羽の道のりは、いくら何でも一人ではこどくすぎる。

そこで、クラスの人に声をかけてみた。すると、すぐに仲間が集まった。つるは折れないけれどできることはないかと声をかけてくれた人には、色の仕分けをまかせることにした。先生を心配する気もちは一しょ。できることを手分けしながら、気持ちをこめてみんなで作る。みんなで手を動かしながらするのは決まって下司先生の話。不思議なことに、ずっとお休みなのに先生の話題はつきない。私の知らない先生の話を聞くのも、みんなで同じことを思い出しながら話すのも両方楽しい。千羽づる、先生どんな顔して受け取ってくれるかな。喜んでくれるかな、うれしくて泣いちゃうかななど、ふだんはあまり話したことのない友達とも話がはずむ。そして最後は必ず、「下司先生、早く帰ってくるといいね」で終わる。みんな思いは同じだ。

ある日、いつものようにつるを折っていると、教室の外から私をよぶ声がきこえてきた。
「これ、家で作ってきたの。良かったら一しょに入れて」
千羽づるのうわさを聞きつけた先ぱいだった。私たちが作るものより、一回り大きなつるを袋いっぱいに持っている。そしてついに、みんなで思いをめいっぱいおりこんだつるは、千羽をこえた。最後につるをつなぐ。きっちり折られたつる、ちょっと不格好なつる。みんなの下司先生への色とりどりの思いが、形となってつながっていく。

下司先生が教室に戻った日。「千羽以上づる」を元気そうに受け取った先生は満面の笑顔だ。私たちもみんな、つられて笑顔。

先生、お休みの間に、いろんな話をみんなでしたよ。先生の話をしながら力を合わせて作ったよ。下司先生、ずっと待っていたよ。

分散登校から始まった小学校生活。みんなそろって教室にいられるうれしさを私達は知っている。コロナ禍の生活も、みんな一しょならきっと楽しみを見つけられる。先生も一しょに、みんなで楽しい出来事をつなぎ、小学生の思い出をたくさんつむいでいきたい。

下司先生、これからも元気でいてください。

【能美さんの作品に対する講評】

になさんの作文、下司先生が休む前のことは書かれてなくても作文を読んでいるとみんながあたたかいきずなでつながれ、笑顔あふれる姿があざやかにうかびあがってきます。なぜ? それは千羽づるを折るときにみなさんがこめた思いが作文からひしひしと伝わってくるからです。千羽づるにこめられたになさんたちの気もち、受け取ったときの下司先生の気もち、作文からまざまざと伝わってきます。千羽づるにこめた思い、読んだ私も心があたたかくなりました。

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中学生の部

言葉の標本
群馬大学共同教育学部附属中学校 二年 大井 愛希葉

「コツコツは勝つコツ」。この言葉は私の座右の銘だ。

私は小学校三年生のとき学校に行きたくなかった。友達と上手くいかなくなったことがきっかけで毎日学校へ向かう足はぬかるみの中を歩いているかのように重かった。

時は過ぎ、とても長かった小学校三年生の生活は終わりを迎えた。そして私は進級した。新しい担任の先生になった。

何事も全力で取り組みポジティブな先生だった。先生が考えたこのクラスの学級テーマはSHIPだった。このクラスは一つの船で全員乗って出発する。その後は誰でも途中で降りずにみんなで波に乗って進んでいくという意味が込められていた。途中で嵐が来て、時々先生から愛情という名の雷に打たれたりもした。けれどもみんなで運動会などの行事や集団という難しさがある学校生活を乗り越えた。ノートを丁寧にとったり校内で会った先生に笑顔で挨拶をしたりそういう些細なことが大事なんだ。普段の学校生活が私の中で輝いていくのを感じた。

「コツコツは勝つコツ」。これは先生の口癖だった。最初は言葉の重みが分からなかった。しかしクラスの人達や先生と過ごして段々と分かってきた。小学校四年生の生活はあっという間だった。先生とのお別れの日
「四年生に進級してきたときはとても暗く辛そうな顔をしていたけれどこの一年間でいつも笑顔で素敵になったね」
と言われた。嬉しかった。三年生のとき逃げ出さなくてよかった。耐えてきた一年間はこんなに素敵な先生と仲間に出会うためだったと自然に心から思えた。先生に出会わなければきっと私は周りに怯え心を閉ざしていただろう。

家に帰って私は「言葉の標本」と作った。それは私が心に残った言葉を集め一冊のノートにまとめたものだ。くじけそうになった時ノートを見ると元気がもらえる。

先生は今ペルーにいる。ペルーで日本学校の先生をしているそうだ。私も頑張りたい。何かにチャレンジしてみたい。先生の現状を聞いて素直にそう思った。

いつか先生に会えるときが来たら胸を張って会えるような自分でいたいと思う。

今でもこれからも「言葉の標本」の一ページ目を開くと先生の口癖が背中を押してくれる。

【大井さんの作品に対する講評】

学級テーマの≪SHIP≫きっとみんなが乗ったこの船の舵を取っているのは先生なのでしょう。その乗組員の一人の愛希葉さん、晴れている日も雨の日も、たとえ嵐がきても先生を信頼し1年間、みんなで航海してきたのですね。読んでいて一番感動したのは先生が愛希葉さんとの別れの時に「いつも笑顔で素敵になったね」と言ってお別れしたこと。きっと愛希葉さんを見守ってもう一人で大丈夫と思ったこその言葉ですね。すばらしい航海を終えた愛希葉さん、また船長(先生)に会えるといいですね。

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いくつあってもいいんだよ、それも素晴らしいから。
広尾学園中学校 三年 柴田 彩百合

「あなたは何人(なにじん)ですか?」。これほど答えることに苦戦した質問はない。私はアメリカで生まれ育ち、四年前に日本に帰ってきたばかりだ。人生の大半をアメリカで過ごしたからと言ってアメリカ人だとも思っていないし、日本の家族がいるからと言って日本人だとも思っていない。この事実は私をずっと悩ませていた。なぜかというと、アイデンティティーがはっきりしていない自分に不安を抱えていたからだ。しかし、中学二年生の時、ライティングの先生が話してくださった言葉が忘れられないものとなった。その言葉は、私のこれまでの生き方に自信を与えてくれ、自分自身に誇りを持てるようになった。

私は四年前に日本の小学校に転入した際、クラスメイトに「アメリカ人」とあだ名をつけられた。自分をアメリカ人と認識したことがなかったことからつけられたあだ名に大きな違和感を感じた。しかし、自分が日本人だとも思っていなかった私はそのあだ名を否定することもできなった。クラスに馴染んでからはアメリカ人と呼ばれることはなくなったが、私にはこれが自分のアイデンティティーを問うきっかけとなった。

学校のインターナショナルコースに入った私に、ライティングの授業で自分が何人かについて話す機会があった。クラスにいるほとんどの生徒が帰国子女であることから、この議題に対してさまざまな意見が飛び交った。「日本人の親を持っているから日本人だ」「人生で過ごした年数が長い方の国籍をとるべきだ」など自分のアイデンティティーがはっきりしているクラスメイトの意見を聞いて、私は自分が何人かがはっきりしていないことに莫大な不安と焦りを感じた。

その時、先生が「この中で自分が何人がはっきりしていない人はいる?」と質問をしたら、クラスの半分が手をあげた。続けて先生は、「僕は何人でもないよ、ミックスなんだ。アメリカで生まれ育ったけど、親はドイツ、スペイン、フィンランド、他にもたくさんの国の血が混ざっている。大人になって働いたり結婚して家庭を持っているのは日本だ。僕は自分をアメリカ人だとも、ドイツ人だとも、日本人だとも思っていない。全てをかね合わせたミックスだ」と言った。私はその言葉に一瞬で惹きつけられた。一つの国籍に絞らなければ自分のアイデンティティーが成立しないと思っていた私には救いの言葉で、ミックスという新しい概念を私に与えてくれたからだ。「今手をあげてくれた人は自分が何人か今まで悩んできただろうし、これからも悩むと思う。けれど、一つに絞る必要は全くない。もちろん『私は何人です』と言えることもいいことだけど、自分の色々な面を受け入れてあげることもとてもいいこと。いくつあってもいいんだよ、それも素晴らしいから」。先生はこの言葉で授業を終わらせた。

私はこの授業を受けてから心がとてつもなく軽くなった。二つの国をまたぐ私のアイデンティティーは、今となっては自分の誇りになっている。先生は、私に自分自身の受け入れ方と認識の仕方について教えてくれた。今の私はこう答える、「私はアメリカ人でもあり、日本人でもある」。

【柴田さんの作品に対する講評】

「あなたは何人ですか?」“これほど答えることに苦戦した質問はない”との書き出しで、アイデンティティーを求める心が動き始めます。彩百合さんは“アメリカで過ごしたからと言ってアメリカ人だとも思っていないし、日本の家族がいるからと言って日本人だとも思っていない”と悩んできました。ライティングの先生が教えたくれた「ミックスの概念」を知った瞬間に、アイデンティティーはいくつあってもよいという答えにたどりつくことができたのです。彩百合さんは“二つの国をまたぐ私のアイデンティティーは、今となっては自分の誇りになっている”と結論づけています。アイデンティティーを求める青年前期の心の動きを説得力ある筆致で余すところなく描き出した秀逸の作文です。

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先生は「点」をくれる
新宿区立新宿西戸山中学校 三年 藤野 紗都

私の学校の先生は、私に沢山の言葉をくれます。小学校では「おはよう」「いただきます」「ありがとう」「ごめんなさい」、中学校では「規則」「秩序」「責任」「敬意」と、様々な場所で私はまるでスポンジのように言葉を日々吸収しています。私にとって小学校の先生も中学校の先生も、部活の先生も塾の先生も、素晴らしい言葉を与えてくれます。

私は数学の授業で、
「線は沢山の点からできているんだよ」
と教えていただいたことがあります。これはきっと先生が数学の説明をするために使われた言葉だったと思います。しかし、私は学校で、
「点で終わらせるのではなく、線にしなさい」と言われたことがあります。数学説明をする上で使われただけの言葉とこの言葉は、似ているようで全く意味が違います。

そもそも、点がなければ線は作れませんし、面にも立体にもなりません。様々な形の元になる大切な「点」を作ってくれるのが先生だと私は考えています。そして「点」をもらった私がすべきことは、それらを結んで線にし、形を作っていくことだと思います。私はこの大切な「点」を「言葉」に置きかえ、与えてもらった言葉をもとにして、考え、理解することが私にとって重要なのだと思います。挨拶はするべきだと言われても、規則は守らないといけないと言われても、やるかやらないかは自分次第です。よく部活の先生に、
「いくら言ってもやるかやらないかはあなた達次第だよ」
と言われます。本当にその通りだと思います。いくら素晴らしい言葉を教えていただいても、それを私が吸収して考え、活かそうと思わなければいけないのだと思いました。まさに、線にしようとするということです。

先生がくれる無数の点を結び、線、面、立体へと大きくしていきたいというのが私の思いです。あちらこちらに転がっている言葉を得て、活かしていけるような、受け継いでいけるような人になりたいです。

【藤野さんの作品に対する講評】

紗都さんは、数学の先生から言われた「線は沢山の点からできている」と、別の先生から言われた「点で終わらせるのではなく、線にしなさい」という言葉は、似ているようで全く意味が違うことに気づきます。この気づきをきっかけにして、先生たちからいただく沢山の言葉は「点」のようなものだと、とらえたのです。では、自分はどうしたらよいか? 紗都さんは、先生たちからいただく言葉―「点」をつないで「線」や「面」、そして「立体」にするのが自分の役目であるという考えにたどり着きます。先生がたがくれる無数の言葉を基にして自分がどのように生きるべきかを見いだしていく論考の過程は論理的で説得力があります。言葉遣いも的確、そして適切で美しい。完成度が高い優れた作文です。

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この言葉に感謝をこめて
香川誠陵中学校 三年 山﨑 千春

『ありがとうございました』という言葉に感謝を込めて。私は最後に、先生に何を伝えるべきだろうか。

私は六月から、違う学校に転校する。私は音に敏感で、教室にいることが辛かった。そして、学校に行けなくなってしまったのだ。私は六月の半ばから、違う学校へ移ることになった。

正直、この決断は難しかった。なぜなら、以前通っていた学校の先生のことが、私はすごく好きだったからだ。先生となら私は頑張れるような気もした。それでも、やはり他の理由もあって、私は違う学校を選んだ。

クラスメイトの声が飛び交っている教室でいると、私はよく体調を崩す。クラスメイトの声や椅子の音が苦手で、どうしても教室にいることができなかった。音が迫ってくるような感覚がして、音自体に恐怖心をおぼえていた。そして、私はよく保健室に逃げ込んでいた。

そんな時、私の担任の先生は保健室に来てくれた。私が泣いているのを見て、優しく話しかけてくれた。「先生にできることなら何でも言ってくれ」「絶対大丈夫だから」という言葉に、何度救われたことだろう。教室にいることが辛くても、保健室で先生と話すその時間は、私の『居場所』だった。先生は私が学校に行けないときでも、よく電話をくれた。そして、母を通して励ましの言葉をくれた。その言葉に、私の心は軽くなった。

また、先生は勉強面でもサポートしてくれた。私が授業で分からなかったところを、放課後にわざわざ時間を作って一対一で教えてくれたことがあった。私が一から問題を解けるようになるまで、真剣に向き合ってくれた。

結果として、私は他の学校に移ることになったが、私は先生が大好きだ。私のことを一人の生徒としていつでもしっかり見てくれた。私の体調が悪いときには、察して保健室へ誘導してくれた。今考えると、本当に私は先生にお世話になっていた。自分からしんどいと言えないときでも、先生のおかげで休むことができた。

六月から違う学校に行くことは不安が大きい。違う環境で、関わる人たちも変わって。教育の課程も、全然違う。それでも、先生が私にくれた言葉を思い出して、頑張りたいと思う。

そして将来、私は先生のように誰かのためになる仕事をしたい。一人ひとりにしっかりと向き合って、その人を導けるように。

最後に先生に会うとき、私は何を伝えるだろうか。「先生の言葉に救われました」「私は先生のことが大好きです」。言いたいことは山ほどあるけれど、すべてこの言葉に込めて。精一杯の感謝を伝えよう。

『ありがとうございました』。

【山﨑さんの作品に対する講評】

「ありがとうございました」普段、何気なく使う言葉ですね。でも千春さんには違う。この言葉にこめられた先生への気もち、作文を読んでいて胸が熱くなりました。千春さんが苦しんだこと、それをきっと先生は自分のことのように感じていたのでしょう。「ありがとうございました」千春さんが感謝を込めたこの言葉。この言葉にこめられた気持ちこそ、千春さんと先生の絆だと思います。新たな決断をした千春さん、先生との心の絆は永遠だと信じています。

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■ 海外賞

海外日本人学校等からの応募作品に贈られる賞です。

小学1~3年生の部

先に生まれた兄
ブリティッシュ・スクール・ジャカルタ(インドネシア) 小学三年 髙橋 英志郎

ぼくには兄がいます。兄は、ぼくより一年八ヶ月だけ「先」に「生」まれました。ぼくたちは、年が少ししかはなれていないので、何でも一しょにできます。サッカーや計算のれんしゅうや英語の勉強を一しょにやっています。兄はぼくより「先」に「生」まれたけど、ぼくに何かを教えてくれるようなやさしい「先生」ではありません。なぜなら、兄はぼくにおいつかれるのがいやだからです。ぼくは、兄においつくためにれんしゅうしています。でも兄は、ぼくにさをつけるためにもっとれんしゅうします。

たとえば、サッカーのリフティングたいけつで、ぼくがきろくをこうしんしても、兄はすぐにもっと高いきろくを出します。ぼくたちはライバルなので、いつもたたかっています。だから兄がぼくにきょう力してくれることはぜったいありません。ぼくも、兄にきょう力してもらう気はありません。

でもたまに、兄がぼくをほめてくれることがあります。学校の集会でぼくが発表をした時、兄は「すごく良かった」と言ってくれました。家でも、お父さんとお母さんに、ぼくが上手にできていたとほうこくしました。それから兄は、兄の友だちとサッカーをしてあそんでいるところに、ぼくを入れてくれました。兄の友だちは、ぼくが年下だから、一しょにできるか心ぱいそうにしていたけど、兄が「こいつ、けっこううまいから大じょうぶだよ」と言いました。ぼくは、兄が言ったことをしょうめいするためにがんばりました。

兄がいると、ぼくは、あんまりきんちょうしなくてすみます。それに、むずかしいことでも、がんばってできるようになります。だから兄は、時どきぼくの先生です。いつもやさしいわけではないけど、兄がいてよかったなと思います。これからも、兄と一しょにがんばりたいです。

【高橋さんの作品に対する講評】

兄弟の関係かんけいは、なかなかむずかしい。弟の英志郎くんは、1歳8ヶ月年上の兄と勉強でもサッカーでも、なんでも一緒いっしょにしている。兄は“何かを教えてくれるようなやさしい「先生」ではない”、“いつもたたかっている”と思っている。その兄が集会での英志郎くんの発表を“すごく良かった”とほめてくれた。父母にも“上手にできていた”と報告ほうこくしてくれた。兄の友だちにも“こいつ、けっこううまいから大じょうぶ”ととりなしてくれた。やっぱりお兄さんがいてよかったですね。

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小学4~6年生の部

ミスター マサイエス
ピッツバーグ日本語補習授業校(アメリカ) 小学四年 原 悠冴

「ハロー」
「ハロー、ぼくがあなたの先生のマサイエスです」
これが、新学期、四年生の教室で、ぼくとマサイエス先生の初めての会話でした。ぼくは、朝からすごくきん張していました。だって、マサイエス先生は見た目がとてもこわそうだったからです。でも、今はだいぶ先生のことが分かってきました。

ぼくから見たマサイエス先生はどんな先生でしょう。まず、マサイエス先生はとてもおもしろい先生です。たとえばある日、だれかが、
「キャン アイ ゴー トゥ ザ バスルーム(トイレに行ってもいいですか)」
と聞いた時、先生は、
「アイ ドント ノウ。キャン ユー(ぼくには分からないな。行けるのかい)」
と、おどろいた顔で聞き返しました。そのしゅん間、クラスがわらい声につつまれました。本当は「トイレに行ってもいいですか」と先生に聞く時は、「メイ アイ」を使っておねがいするのですが、その子が「キャン アイ」と言ったので、それは、「ぼくはトイレに行けるのう力がありますか」という意味になってしまったのです。先生は、その子が間ちがっていることを、おもしろく教えてくれました。つい、みんな同じように間ちがえて言ってしまうので、毎回このやりとりになって、毎回みんながおなかをかかえてわらいます。

またある時、ぼく達の教室には電話があって、時どき事む室から電話がかかってくるのですが、先生は受話きをとって、
「はい、ドミノピザです。注文をどうぞ」
とか、
「こんにちは。こちらはニコの家です」(ニコはぼくのクラスメイトの名前です)
と言って電話にでます。すると、クラスの部屋全体がしんと静かになって、その後、みんなが、まるで火山がふん火したみたいに一気にわらいだします。ぼくは、先生のそういう面白い所が大好きです。

それから、先生はとても物知りです。ある日、理科の時間に先生は、
「公園で鳥を見たよ」
と言いました。そして、その後にとってもくわしい説明をしてくれたけれど、すごくくわしすぎて聞き取るのがむずかしくて、ぼくはと中から何がなんだか分からなくなってしまいました。ぼくが先生から聞き取れたことは、「白い」、「大きい」、「魚を食べた」ということだけでした。だけど、ぼくのクラスメイト達は先生の話を、「なるほど、なるほど」と真けんに聞いていました。ぼくは、先生は物知りでかっこいい先生だと思いました。

でも最後に、ぼくは一つだけ先生に言いたいことがあります。それは、毎日コーラを飲むくせをやめてほしいのです。なぜなら、コーラは飲みすぎると体によくないし、教室で先生がコーラを飲むと、ぼくたちもみんなコーラが飲みたくなるからです。

先生がクラスにいると、みんなうれしくて温かい気持ちになります。まるで、春の日のポカポカな太陽みたいです。五年生になっても先生のクラスになりたいです。そして、ぼくも先生みたいにおもしろくて、やさしい人になりたいです。

【原さんの作品に対する講評】

こわそうな先生がいかに身近で自分にとって大切な人物なのか、日々に見られるおもしろいエピソードから浮かんできます。「春の日の太陽」ということばも、大げさでなく感じられるのは、一つ一つのできごとがあるからです。

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中学生の部

僕の心の支えとなる言葉
アムステルダム日本語補習授業校(オランダ) 中学三年 ヴァンフリーケン 潤晴

「努力できることは潤晴君の素晴らしい才能だよ」。これは、僕が日本語補習授業校一年生だった時の担任の室崎先生がかけて下さった言葉だ。

当時の僕は、著しく言語発達が遅れていて、平日校でのオランダ語にも、補習授業校での日本語にもついていくのがやっとだった。よくハーフの子は、その環境がゆえに楽々とバイリンガルになれるというイメージを持たれがちだが、僕の場合はそうではなかった。毎日皆についていかなくてはと、幼い僕なりにもがいていた。

学校へ行く前には、毎朝日本人の母と一緒に日本語の教科書を音読し、漢字の勉強をした。夜寝る前には毎晩オランダ人の父とオランダ語の本を読んだ。こういう日々をコツコツと重ねることで、僕は今日まで何とか勉強を続けてきた。

中学生になり、僕の言語能力は向上したとはいえ、学習内容が高度になった分、相変わらずオランダ語にも日本語にも苦労している。オランダの平日校のテスト勉強が大変すぎて押しつぶされそうな時など、日本語補習学校との勉強の両立はもう難しいかもしれないという気持ちになることがある。そんな時に頭をよぎるのが例の室崎先生の言葉だ。
「努力できることは、潤晴君の素晴らしい才能だよ」

実際、僕はこの言葉に今まで何度も何度も救われてきた。もうダメだあきらめてしまおうという気持ちをふり払って、様々なことを乗りこえてきた。十四歳になった僕は、「牛の歩みも千里」であることを実感し始めている。

室崎先生が七才の僕に贈って下さったメッセージは、いつも僕の心の支えになっている。きっとこれからますます勉強は大変になると思うし、社会に出ればより困難なことが待ち受けていると思う。でも僕は室崎先生から頂いたメッセージを信じて、これからもコツコツと人生を歩んでゆきたいと思う。

【ヴァンフリーケンさんの作品に対する講評】

「努力できることは潤晴君の素晴らしい才能だよ」という室崎先生の言葉が、何度も何度も潤晴さんの心の支えになってきたこと、そして、これからもこの言葉を支えに困難なことにも立ち向かっていこうという潤晴さんの強い思いが伝わってきました。言葉のもつ素晴らしさを改めて感じることができる素敵な文章です。

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